私のピカソ 私のゴッホ

私のピカソ 私のゴッホ (中公文庫)

私のピカソ 私のゴッホ (中公文庫)

彼がまだ長野で高校に通っていた頃、
「ベルナール・ビュッフェを中心とする『オム・テモアン』の連中に頭蓋骨を打ちのめされていた」
と書いている。
奥付によると1934年生まれなので、そのころはまだビュッフェの実際の絵が展覧会で見られたり、ましてや、ビュッフェ美術館が日本に出来たりするとは思いもよらないことだったろう。美術雑誌のモノクロームの複製でわずかな枚数を見ただけだったが、「電撃のように感電された」と書いている。
「針金のような、棘のような、神経そのもののような線」
ピカソを論じるとき、いきなりビュッフェが登場するのは、いかにも唐突な気がする。岡本太郎ではありえないことだろう。画家の本には、思いがけず色濃く時代の空気が写しこまれていて、そのことの方が、微に入り細を穿った研究よりずっと楽しい。
ヴラマンクピカソを否定したのは、絵が観念的になって、自然から離れていくことだった。しかし、キュービズムが観念的であったとしても、ピカソ自身は観念的どころか思索的であったことすらない、と、そのことは、アヴィニョンの娘たちについて池田が書いていることを読むと、ひどく納得できる。
ピカソセザンヌを引き継いで、抽象絵画を創始したにもかかわらず、カンディンスキーのような抽象そのものの絵はけっして描かなかった。池田が言うように、どんなに歪められても、女は女、静物静物なのだ。
池田満寿夫は、ピカソアンドレ・マルローに叫んだという言葉を発見している。
「アヴィニヨンの娘たち、あれは、わたしの最初の悪魔祓いの絵だったんだ!」
ピカソの絵が、アヴィニヨンの娘たちにかぎらず、悪魔祓いの武器、フェティッシュであるとすれば、破壊的な力強さにも納得できる。なぜならそれは、破壊されるために描かれているのだから。それも、次から次へと破壊されるために。
ピカソは、対象を画面に再構成しようとしているのではなく、対象を封じ込めるためのフォルムを追い求めている。少しでもフォルムが弱いと、悪魔を封じ込めることなど出来はしない。
ピカソにとって絵を描くことは、もっと根源的で呪術的なことだったのだ、と、これからはそう思いながら、ピカソの絵を観てみる事にしよう。
ゴッホについての著作は、小林秀雄の「ゴッホの手紙」がある。私はたぶん読んでいない。小林秀雄は何作か読んだ後、たぶんドストエフスキーあたりで、突然、私の中で過去の人になってしまった。小林秀雄ドストエフスキーについて書いていることを読むより、ドストエフスキーそのものを読んだ方がよいと、突然気づいたのだ。
画家が画家について書いた本は、詩人が詩人について書いた本とか、ピアニストがピアニストについて書いた本とかと同じように、ガールズトークを盗み聞きするようで面白い。批評家は所詮、こちら側の人にすぎない。ただ、残念なことに向こう側の人で、その上文章が書ける人となるとなかなかいないというだけである。
こちら側にいては気がつきもしないこと、技術的な話題をあげると、19世紀以降の近代画家で物理的に満足すべき画肌の状態を保っている画布はかろうじてゴッホとアンリ・ルソーだけだそうだ。
池田満寿夫はまた読書家なのである。グザヴィエ・ド・ラングレ著「油彩画の技術」のこの一節には池田満寿夫だけでなく、誰もが驚くだろう。ゴッホの油絵が今なお新鮮な画肌の状態を保っているのは、油絵の伝統的な手法を忠実に守った結果なのだそうだ。池田満寿夫は「唖然」としたそうだ。なぜなら、ゴッホは生涯で700点超の、最晩年の一年では220点もの油絵を製作している、驚異的な早描きの画家だからだ。なのに、絵の具を重ねるとき、下地が乾くのを待つ余裕があった?
ゴッホの書簡集の中から、次の一節を引いている。
「ともかく、かなり好いものをときどき描ける自信が出来た。自然に対して倦まず仕事して、アイザックソンにも言ったように、あれが描きたいとかこれが描きたいとか言わず、靴を作るような調子で、何ら芸術的な配慮なしに仕事すべきだとだんだん信じて疑わなくなった。」
そしてこう書いている。
「この箇所はもっとも私を動かした。画家としてのゴッホを如実に見た思いがしたからである。人々はあまりにゴッホの思想を語りすぎている。絵の内面に入りたがり過ぎる、というのが私の画家としての不満であった。」
晩年には一年間に200点を越える油絵を描き、しかも、存命中には一枚も売れなかったにもかかわらず、
「彼が画家として当時の人々の判断を裏切るきわめてすぐれた絵の具の使い手だったことが、時の試練を待つまでは誰にも予想できなかったのだ。」
「何故十九世紀の画家の中でゴッホの画肌がとびぬけて美しいのか。その何故に答えるためにはラングレでさえ奇跡だ、というしかなかったのである。」