トウキョウソナタ

恵比寿ガーデンシネマで「トウキョウソナタ」を観て来た。
公式サイトによると、マックス・マニックスという、日本に暮らしていたオーストラリア人が書き下ろした脚本が、企画の始まりらしい。
そのもともとの脚本はどのようなものだったろうかと夢想してみていた。というのは、登場する成年男性たちが、個人的に親近感を覚えるせいだろうか、ずいぶんリアルに描き分けられていると思った。
リアルすぎて、人によってはシュールに見えるかもしれない。失業というのは、実のところ、その当人にとっては、不条理でシュールな体験のはずである。
自殺者が交通事故死を上回る日本の現状を、外からどのように見えるのだろうかとときどき思う。失業者を描く映画は珍しくもないが、日本の失業者をリアルに描くと、シュールかつブラックになるということに驚いた。
香川照之津田寛治役所広司、三人の芝居を堪能できると思う。特に津田寛治には狂気を感じた。黒沢清監督の常連である役所広司だが、今回の役どころは下手な役者が演じるとぶち壊しになりかねない。その意味で信頼できる役者に委ねたのだろう。小泉今日子が車から降りるときのあの芝居、サイコーにおかしい。
三人の失業者に加えて二人の息子、小泉今日子演ずる母親恵は、狂言回しの役どころにならざるをえない。しかし、恵は、ある台詞の中で、自分が自覚的に母親役を演じていることをさりげなく語っている。この家族の中で、つまりこの映画の中でと言ってもいいか知れないが、自覚的なのは恵だけなのだ。
その意味で、この映画全体の視点は恵のものかもしれない。
香川照之演ずる佐々木は父親役を降りて父親になった。息子たちは自分たちの道を歩き始めた。だが、恵は母親役を降りなかったように見える。ずっと自覚的に演じてきたから、彼女の孤独は構造の外にあるのだろう。
撮影監督の芦澤明子「叫」のときも同じ人だったそうだが、ライティングの味わいが特徴的で語らせる感じ。恵の海辺でのエピソードはライティングが饒舌である。
で、マックス・マニックスの元の脚本だけれど、今よりシンプルだったのだろうか。それとも、もっとウエットだったのだろうか。ともかくも、オーストラリア人の原案、黒沢清のリライト、そしてなぜか日本とオランダの共同制作という無国籍感が奇妙にリアルな映画を作り出してしまった。ある意味、現実以上にリアルかもしれない。現実の方がこの映画をまね始めないだろうか。