「山水に遊ぶ−江戸絵画の風景250年 」後期A

knockeye2009-04-17

昨夜風呂上りに、Tシャツ一枚にパーカーをはおって綾瀬タウンヒルズのサミットまで、往復一時間くらい歩いた。
それが夜の九時くらいだから、確かに今日寒くなるとは聞いていたけれど、ダンガリーシャツにジャケットを着てるのに、まだ寒いとまでは思わなかった。
最高気温は、ほぼ天気予報どおりの15℃。でも、それってこんなに寒かったのか。薄手のセーターくらい着てきたらよかった。帰りは小田急ラッシュアワーに揉まれたが、それでも汗もかかなかった。
今日は先週の土曜日と同じコース。
菅直人のお膝元、府中の美術館に
「山水に遊ぶ−江戸絵画の風景250年 」
の展示替え、「後期A」を観にいった。先週の桜吹雪がマルチングになって公園の土を覆っていた。二回目なので半額300円。得したような気がする。
展示替えで伊藤若冲がなくなっているのを知らなかったのか、退職後のご夫婦という感じのお二人がポスターを前に残念がっていた。
新たに加わった絵の中で私が気に入ったのはまず、
円山応挙の「海上竜巻図」。
この時代、まだ竜巻は竜が起こすと考えられていたそうだ。現代人でも実際の竜巻を見る機会なんてほとんどない。当時はニュース映像もないし、伝聞だけだろうから、被害の実感という点においては、CGより応挙の絵の方が迫力が伝わるというものである。
私が今までに見た竜の絵の中で一番好きなのは狩野芳崖のものだが、応挙の竜もひけをとらない。絵の構成とか闊達さでは応挙の方をとる人がいても反論しない。
蕭白は応挙の「写生」を批判していたようだが、こういうの見せられちゃうとね。
前期の狩野山雪の富士山、「富士三保松原図屏風」に替えて、狩野探幽の「富士山図屏風」が展示されている。このあたりはすべて雪舟の変奏曲なのだそうだが、私としては山雪の方が好き。
狩野栄信(ながのぶ)・養信(おさのぶ)の「富士山江の島図」。
一枚の掛け軸に片や富士山を片や江の島を描いている。こういうコラボレーションを今の画家がやったら面白いと思う。
まだ漫画のアシスタントという制度が確立していなかったときに、手塚治虫鉄腕アトムを、当時トキワ荘に寄宿していた石ノ森章太郎藤子不二雄が、顔まで描いちゃって、似ても似つかなかったという伝説があるが、今となってみればその絵を見てみたい気もする。
曽我蕭白 「月夜山水図屏風」。
蕭白の字が独特で、これはなかなかの難物だぞと思わせる。絵からは蕭白の生真面目さがばしばし伝わってくる。個人的にはモノクローム水墨画より極彩色のもののほうが蕭白に向いていると思う。
墨江武禅の「月下山水図」。初めて聞く名前だったけれど、奥に浮かぶ月の光が、遠くの松から手前の小川のさざなみにまで映る様子が、墨の濃淡で表されていて、小品ながら見逃せない名品だと思う。展示予定では前期のみになっていたが、後期も引き続き展示されているみたい。前回は通り過ぎてしまっていたが、改めて見るとよい絵だ。
池大雅 「近江八景図」。
これが洒落ていて、一枚の小さな掛け軸で、琵琶湖を一筆書きで描いた中に、近江八景を全部書き込みましたという趣向。
浦上玉堂の「山邨読書図」は、山水というより文人画の趣なのだけれど、「読書」というお題で絵を描くとき、油絵ではこうはいかないと思う。そういう意味では水墨画はとても内面的なんだなぁと面白く思った。
後期の展示の中で私がイチオシしたいのは長澤芦雪2点。「赤壁図」(レッドクリフ)と「蓬莱山図」。芦雪は応挙の弟子にして無頼の伝説のある人だが、水墨では応挙を越えているのではないかと評価もある天才肌の画家。
赤壁図」の伸びやかな線は、今、舟に乗って赤壁の前を通り過ぎているような錯覚さえ覚える。
「蓬莱山図」の構成の洒脱さ。そして水墨の線の美しさはちょっと他の追従を許さないと思う。ご覧になる方はぜひお見逃しなきように。

他に、変わったところでは鈴木芙蓉の「鼈背蓬莱図」。
蓬莱は巨大な亀の背中に載っているとされていたそうで、ガメラだった。
展覧会のあとも先週と同じコース。新宿に出て「ニセ札」。先週は舞台挨拶の回にかち合わせてしまって見られなかったのである。
舞台挨拶では、キム兄、号泣だったそうではないか。
映画のできは、多才な木村祐一といえども、一発目からそううまくいくというわけには、なかなかいかないものである。
扱っている題材の骨格がしっかりしているので、そんなに破綻はない。だから逆にもっとはじけても良かったと思う。
インパルスの板倉ももうちょっと遊んでもいいように思う。
ハイヒールのリンゴがちょっと出ていた。関西人には知っている人がいるかもしれないが、キム兄は若いころ、リンゴねえさんをオカズにしたことがあるそうだ。
考えてみれば吉本には膨大な才能が埋蔵されている。中田ボタンがチョイ役ででているけれど味がある。
別にオール吉本で固める必要はないけれど、こないだの「ホノカアボーイ」の喜味こいし正司照枝をみて(二人とも吉本ではないが)思った。やっぱり板の上で場数を踏んでいる芸人は存在感が違う。演じることにおいて、動物的な勘みたいなものを備えてしまっているのだと思う。だからもっと吉本の蓄積を活用すればいいのにと、外野からは思う。
先に言ったとおり、ストーリーの骨格はしっかりしている。
国家と国民の間の信頼関係が崩壊したとき、当然紙幣に対する信頼もなくなる。インフレが自殺者の山を築いているときに、ニセ札づくりぐらいなんやねん。
古くから高級和紙を作ることに誇りをいだいてきた村人が、村をあげてニセ札作りをやらかしたという実話は痛快だ。紙自体はすかしも含めて本物より高品質だったというのも楽しい。
ただその楽しさが映画に反映されたかというと、そこはちょっと物足りないのだけれど。
板倉へたやなぁ。ヘタすぎて逆に好感持ってしまった。