ベルギー幻想美術館

ベルギーと聞いて思い浮かぶものは、チョコレート、刺繍、宝石、エルキュール・ポワロ・・・。
ポワロ以外は他でも手に入るものなのに、ベルギーの名を冠すると、ご婦人方が目を輝かす。
ジャポニズムといわれるような意味でのベルギズムは存在しないかもしれないが、ベルギーには独特の洗練がある気がする。
Bunkamuraミュージアムで開かれている「ベルギー幻想美術館」という展覧会は、シャルルロワ市と姉妹都市関係にある姫路市立美術館の蒐集になるベルギー絵画の展覧会。
フェルナン・クノップフの絵はいつかまとめて観てみたい。ラファエル前派のバーン・ジョーンズに影響を受け、ウィーン分離派にも出展したことがあるという、抒情たっぷりの絵で、理屈ぬきに楽しめる。
クノップフに加えて、今回の目当ては、ルネ・マグリットポール・デルヴォー
ルネ・マグリットが奥さんを描いた「ジョルジェット」を見ながら、ルノワールが同じく奥さんを描いた「アリーヌ・シャリゴの肖像」を思い較べてみる。さらにはピカソの「ドラ・マールの肖像」とか、肖像画ではないけれど、ジャン・フランソワ・ミレーの「畑からの帰り」は?
あえて言うまでもないけれど、そんなことに優劣をつける意味がないよね。
そういう風に思えるだけでも、わたしにとっては、たくさんの絵を見てきたことはいいことだったと思う。長く生きてきているのだから、少しくらいは心を耕したといえることがあってもいいだろう。
マグリットの小品「9月16日」がよかった。
ポール・デルヴォーは、溺愛する母が女を近づけまいとした。彼の裸婦の源泉は、子供のころ、お祭で見た生き人形の女なのだそうだ。
彼にとっては、現実よりもまず幻想として女が存在した。でも、それは多くの男女にとっても同じかもしれない。性の情報が性の現実に先行するということは。そして、性の幻想が性の現実より深層にあるということも。
頽廃という意味では、フェリシアン・ロップスの、虫眼鏡がないとつらいほどの版画の数々。たぶん、あれは小さいということに大きな意味があるのだと思う。できることならもっと小さくして、のぞきめがねか何かに押し込めたいのではないか。
比較的大きな作品「生贄1」「サチュロスを抱く裸の若い女性」「スフィンクス」に現れているものは、擬似茎願望だろう。巨根願望というとたぶん間違いなのだ。問題は大きいかどうかではなくて、勃起を陰茎の現象としてとらえず、勃起した陰茎をモノとしてとらえる、陰茎に対するフェチシズムなのである。
それは機械願望ともいえる。男性が機械を好むのは、外からの刺激で金属化する肉体の一部が、自らの欲望と強く結びついているからだ。