『夏目漱石を読む』

夏目漱石を読む (ちくま文庫)

夏目漱石を読む (ちくま文庫)

夏目漱石という作家は、‘そういえば・・・’という感じで折にふれてふりかえりみられる存在のようだ。
近年では、小林信彦
『うらなり』
うらなり (文春文庫)

うらなり (文春文庫)

丸谷才一
『闊歩する漱石
闊歩する漱石 (講談社文庫)

闊歩する漱石 (講談社文庫)

わたしは、丸谷才一が「坊っちゃん」について書いているのを読んだ後に「うらなり」を読んで、なんとなく得したような気がした。
丸谷才一は、英文学史漱石を位置づけようとしていたと思う。
夏目漱石は、わたしたちが「今」と呼んでいる時代について、「今ってどういう時代だったっけ」とふと疑問を感じて、どんどん遡っていくと、そのいちばん始まりにたっている作家だという気がする。
つまり、漱石は私たちの同時代人なのであって、その意味で、分かりやすさと同時に魅力的な分かりにくさを持ち続けているのだろう。もしかしたら10年か20年後には、今の作家たちより漱石の方が‘新しい’ということになっていてもおかしくはない。

 『こころ』という作品は、今でもいちばん読まれているそうですが、この作品を読んだ印象を一言でいえば、何か先生という人物の罪の意識だけがまっ暗闇のなかでちょっと光っているという画像が強烈にのこります。それ以外の具象性は、あまり造形的に成功しているとはおもえないのです。それほどの具象性がある作品とはおもえないんですが、ただ人間の罪の意識みたいなものがぽーっと闇のなかに浮かびあがっているイメージが読後の印象としてのこります。

この罪の意識とは何か?というところに本物がある気がする。とても個性的で、完全には理解できそうにないのに、自分の中にもあるように思える。
誰かが振り回しているうすっぺらな正義や責任論などとは全く相容れない、今という時代の底を押さえつけている重石のようなものがそれなのではないかと思わせさえする。
あとがきに

 わたしは漱石の作品に執着が強く、十代の半ばすぎから幾度か作品を繰り返し読んできた。隅々までぬかりなく読んだので、一冊の本にその学恩ではなく、文芸恩を返礼するのが、わたしの慣例なのだが、江藤淳さんの優れた漱石論があるので、これで充分いいやと考えてそれをしていない。(太宰治についても奥野健男氏の優れた批評文があるのでおなじように考えた。)ところで漱石について作品を論述する機会を与えられ、喜んでそれに応じて、出来るかぎり詳細に作品論を語った。この本の内容がそれである。

考えてみると、わたしは十代の頃に漱石を読んでしまってそれっきり手にとっていない。江藤淳の『夏目漱石』も確かに読んだが、全く憶えていない。でも、不思議なもので漱石の小説はかなり憶えていて、『門』に抱一が出てくるのを憶えていた。
中学のときの同級生で佐々木くんという人が『虞美人草』にいたく感銘を受けて、日常会話にまでやたらと『虞美人草』を引き合いに出す。しつこいほど薦めるので読んでみたけれどあまり好きになれなかった。
吉本隆明は『虞美人草』について

文学とはこういうものだったんだという感じが油然とわいてきます。少なくとも僕の感受性だったらそうなります。この種の、文学とはもともとこういうものだったんだという感じをフッと出させる作品を書いた作家がいたら、それは第一級の作家だと考えていいと判断します。僕はそうおもっています。

佐々木君はギターが上手なトーキョーのひとで(当時大阪に住んでいたわたしにとっては、関東全域が‘トーキョー’だったので、今となっては彼が東京の人だったかどうかはっきりしない)さっぱりしたいい人だった。