補遺

しかし、・・・と何日か後に書き加えるのだけれど、やはり、‘価値観の対立’を書き込めるかどうかは作品にとって大きいとおもう。
というのも、「ジュリー&ジュリア」のことを思い出していた。
あの映画の中に、ジュリア・チャイルドの料理番組をパロディーにした「サタデーナイトライブ」の映像がさしはさまれていた。
「サタデーナイトライブ」でネタにされるということは、ジュリア・チャイルドの成功の大きさを物語る一方で、パブリックイメージがひとり歩きする疎外感もまた十分に想像させる。
その映像を夫婦で見ながら楽しんでいる、ジュリー・パウエルにとっては、ジュリアは‘台所の精霊’のような存在にすぎない。
だが、本当のジュリア・チャイルドは、その同じ時間を生きている生身の人間なのである。
だから、映画のラスト近くに、90歳になるジュリアの消息が伝えられる、あのほろ苦さが、実は、あの映画の核にある重みであり、立体感なのだろう。
そういうものを「今度は愛妻家」が持ちえたかというと、そこが弱くなるのは、そもそも薬師丸ひろ子の「さくら」にほんとうに離婚の意志があったのかどうかが伝わってこないところ。その意味では、城田優の役どころはもう少し掘り下げてほしかった。
その視点に立つと、石橋蓮司の存在感は大きくて、さくらの人間性に厚みを加えている。彼がいなければ、さくらの性格は全く類型的な世話女房になってしまうだろう。彼の存在が、さくらが家族愛を渇望する切なさを背後でささえている。石橋蓮司の人物造形がいちばん複雑で立体的だといえるかもしれない。
なので、誠と蘭子の若いカップルには、俊介とさくらと水際立って対称的な価値観の対立があってほしかった気がする。もっと片意地張って、先端ぶって、無意味にポジティブであってよかったのではないかとおもう。蘭子がパーティーに乱入するシーンにリアリティーがあって、あの緊迫感がもう少し広がればなぁと惜しい気がした。
価値観の対立がない分、自己肯定的になった気がする。