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TALK 橋本治対談集

TALK 橋本治対談集

橋本治の対談集。
対談集を読みたいと思うのは、よかれあしかれその人に興味があるということなんだろう。
しかし、橋本治の場合、できることなら対談集だけで済ませたいという気持ちが内心あったりするかも。
とにかく膨大だからね。
最後に収録されている天野祐吉との対談は2008年の10月のもので、まだ麻生太郎が政権にいたころ。
こう書いている。
「というか逆に、小沢首相では日本はより沈滞するかもしれない。だって小沢さんて人の言うことを聞く人じゃないでしょ。今の日本の政治家にいちばん必要なのは、人の言うことを聞くという能力だもん。」
こういうあたりからもよく分かるかも知れないのだけれど、橋本治というひとは大づかみでものを理解して、それを軽妙な語り口に変換してしまうのがとてもうまい。
だからそれが分かりやすいと勘違いして、片言隻句を拝借して、それをわがもののように振り回していると、後でえらい目にあうのではないかと思う。
洒脱な語り口とは裏腹に、この人の知性は徹底的に対象を分析する氷の知性で、人に行動を促したりはしない。
それはしかし欠点とはいえない。橋本治の正しすぎる分析を読み終えて
「じゃあ、どうすればいいの?」
と訊くほうが間違っているというだけだ。
浅田彰との対談で、小林秀雄本居宣長をめぐって議論している。

浅田 本居宣長に対して上田秋成が、オランダわたりの世界地図を見て、日本というこんな極東の島国に太陽神が降臨したなんてありえないとか、子どもみたいにストレートな議論をする。それに対して宣長が、いや、そういう言い方そのものが漢意なので、素直に古事記と向き合うということが君にはわかっていない、などと言う。橋本さんの言われるように、すごく屈折したディフェンスというか・・・・・。
 
橋本 それ以前に、宣長に人に説明しようという気がないんだと思う。だって、あれで分かれというのは無理ですよ。
 
浅田 小林秀雄坂口安吾に「伝統と反逆」という有名な対談がある、あれも同じような構図でしょう。安吾は子どもみたいにストレートなことを言う。
(略)
僕自身は、上田秋成坂口安吾のように突っ張るべきだと思う。だけど、彼らが相手にしている本居宣長的あるいは小林秀雄的な構造というのがすごく強力なものだし、いまも持続しているということは、きちんと見なければいけないと思うんです。
  
橋本 多分、私は坂口安吾上田秋成の言うことのほうがよく分かり、小林秀雄本居宣長の言うことのほうが分かんないんですよ。ただ、小林や宣長が何を問題にしていたのかは分かる。わかるんだけど、そのわかることをこっちに分かるように説明してくれないんだなというおもいがあって、
(略)
 
浅田 (略)・・・でも、上田秋成なんかと対応する中で、本居宣長はどうにも硬直した居座り方をしてしまう。小林秀雄も最終的にそういう居直り方を反復しているところがある。あれはちょっといやなんですね。
(略)
 
橋本 本居宣長という人は定説に縛られないで、自分の感性で考える人だったはずなのに、その人をルーツにしていつの間にか定説というものが出来上がっていて、それとちがう考え方をすると変だということになったのは何故?という感じなんです。

でもどうだろう。定説化していく(日本人の中でだけだけれど)という無意識の確信があったからこそ、説明する努力をしなかったのではないだろうか。
民族的なアイデンティティーを背後に勝利を確信している小林秀雄本居宣長より、答えの出る見込みのないまま論理で切り込んでいく坂口安吾上田秋成の態度の方が私には信頼できる気がする。
橋本治自身は自由に発想し自分の感性で考える人であるだろうが、彼の片言隻句が定説として流布してしまう可能性はかなり大きいかもしれない。それは、安易な結論に着地しないせいだと思う。
だれかが、橋本治の考察を借用して自前の安易な結論に結びつけることは簡単そうだからである。
現在、東京国立博物館長谷川等伯の展覧会が開催されている。
http://www.tohaku400th.jp/index.html
茂木健一郎との対談では松林図屏風についてこう語っている。
「紙の上に筆の刷毛がこう踊っていて、明らかに松林の松の絵の一部なんだけども、筆遣いしか見えず、そうすると、そこに今さっきまで等伯がいて、絵を描いて、「うめえだろう」と言って去っていったという痕跡みたいなのが見えて、それはどう感じるかじゃなくて、もう触りたい。ほんとにうまいから。ほんとにうまいし、気持ちいいんですよ、あの筆遣いが。」
あの絵は国宝という名に恥じないもので、上野のあの混雑する展示室であれを見ると、「こんなところに展示していていいのか」と矛盾したことを感じてしまうほどである。