ハンブルク浮世絵コレクション 

 よいお天気のせいか、思ったより人が多かった。 
 もちろん、表参道にあふれる人の波に比べればなにほどのこともないが。
 鈴木春信の<寄山吹>。
 片手で上げた御簾をおろすのももどかしく、少年を後ろから抱き寄せる女、少年は縁側に腰掛けたまま、女の胸にもたれかかっている。
 座って待っていた少年が、抱きすくめられて、少しもたれかかる、そんな微妙な瞬間をとらえる、春信の繊細さに驚いてしまう。
 春信の絵は、対象ではなく、イメージそのものを絵にしていると感じる。
 私たちはたぶん、モノをあるがままに見ていたりはしないのだ。そうでなければ、なぜ、何かを美しいと感じるだろうか。
 なぜひとりの女に目を奪われ、ほかの女には奪われないのか。
 結局、見たいものを見ているにすぎないとしたら、見たままを描くことと、見たいものを描くことの違いはなんだろうか。

鈴木春信 風流江戸八景 他―中判錦絵秘画帖 (定本 浮世絵春画名品集成)

鈴木春信 風流江戸八景 他―中判錦絵秘画帖 (定本 浮世絵春画名品集成)

 最近、『風流江戸八景』という春信の画集を手に入れたのだけれど、その絵の中に「豆男」という、人間の相似形縮小版が忍び込まされている。
 その「豆男」が、鈴木春信の絵の中で、まったく違和感がない。
 多分、「豆男」は、自分のイメージの中に入り込んでしまった、観察者自身なのだろうと思う。
 春信の絵が新鮮であり続けるのは、対象を経由せず、イメージそのものに訴えてくるからだろうか。