「クロッシング」

knockeye2010-11-27

 シネセゾン渋谷で「クロッシング」。
 アメリカ映画は、ハリウッドからNYへ首都を移しつつあると、イーサン・ホークの顔を見ていると、何となくそんな風に思う。
 脚本は、失業中の元・映画科学生が、賞金目当てに書き上げた処女作だそうだ。 西海岸の波打ち際まで行き着いたフロンティアスピリッツが、背後にうち捨てたアメリカンドリームは、ひとりでに物語を紡ぎ出すほどに退屈しているかも。
 イーサン・ホークドン・チードルリチャード・ギア、三人の警察官が主人公だが、彼らの誰も、彼らが社会で演じている「正義」という役割に信ををおいていない。そんな、今さらむしろ自明なことは、オープニングからはっきりと観客に告げられる。
 社会が押しつけてくるフィクションをそのまま生きている人間には、そもそも物語なんていらない。彼ら自身が100%フィクションだから。
 多くの人と同じようにこの映画の主人公たちも、現実と虚構の危ういバランスの上でかろうじて生きている。
 イーサン・ホークの目の前には、麻薬取引の札束がいつも行き来している。
 リチャード・ギアは、定年を一週間後に控えて、若い娼婦に深入りしている。
 ドン・チードルは、潜入捜査が長引いて人生を失いかけている。
 虚構はいつまでも同じ歌を歌い続けようとするが、現実はいつも動いていく。そして、彼らに選択を迫る。虚構の側はいつでも簡単に答えを提示してくれるが、現実は正解を用意してくれないし、そもそも、正解があるかどうかさえ示してくれない。リチャード・ギアに、娼婦がくれた時計の裏蓋に刻んであった文字のように、それでも選ぶしかない。より正義(righter)な方を。
 彼らが引いた引き金に説得力があるのは、彼らが、社会が押しつけたフィクションではなく、彼ら自身のストーリーを選択しているからだ。
 うすっぺらな社会正義のためなんかに引き金をひく人間は、もはや映画の主人公にはなれないのである。
 そして、人生の残酷なところは、彼ら自身の選択の結果は、かならず彼ら自身に引き受けさせるところだ。
 イーサン・ホークが演じる警官がカトリックであることも、宗教の規範が人に強いてくる重さという点で、効果的だった気がする。
 もちろん、リチャード・ギアも、アイルランド系なわけだから、カトリックなのだけれど、この映画ではかならずしもはっきりと描かれてはいない。
 WASPのご都合主義的な功利主義と資本主義の精神に、アメリカ人もうんざりしてきているのかなと思ったりした。
 しかし、リチャード・ギアと娼婦との恋といえば、「プリティー・ウーマン」を思い出してしまうのだけれど、今回はあのときとちがって、ずいぶんと切ない。そして、私は今回の方が好きだ。
 ちなみに、原題は「Brooklyn's Finest」。‘finest’は、アメリカ英語で警官の意味だそうだ。