「正義」の話

 BRUTUSの年末年始合併号で、いとうせいこう萱野稔人が、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』について対談している。
 ハーバード白熱教室をテレビで見たときは、なんでハーバードで、こんな中学のホームルームみたいなことをしてるんだろう?と思った。
 それで、しっかりと猜疑心たっぷりの感想を抱かせていただいた。なにしろ、当時、NHKは、小沢一郎東京地検特捜部をめぐる報道などで、股のつけねまであらわにした馬脚の記憶も新しかったので。
 でも、そういう極東の特殊事情を取り除いて考えてみると、アメリカにマイケル・サンデルのような人が出現したことの意味は興味深いのだろう。
 萱野稔人の「富のリソースが無限だと想定できていた状況が終わった」という指摘をコレクションしておく気になった。
 近代の、富が無限に拡大していくという前提が崩れ去ったとしたら、次には、有限なものをどう「分配」していくかが問題になる。その分配の基準が、つまり、「正義」にほかならないから、今、アメリカ人は「正義」の話をしようといっている。
 以前、このブログにはこう書いた。

ちかごろ、マイケル・サンデル の『これからの「正義」の話をしよう』なんていう本が話題になっているが、わたしの認識では
「正義の話なんてしたって仕方ないじゃないか」
というのが、アメリカ人の態度だったはずだった。なぜなら
「正義は、個々人のこころの問題で、そこにはお互いに踏み込まないようにしよう」
というのがアメリカ社会のはずだったからだ。
しかし、そうして各人の心の中に存在しているはずの正義だが、結局のところ、経済原理という唯一の原理のもとに統治されている、という現実を突きつけられたとき、他の正義に批判されず、個々人の幻想の中で飼いならされている正義が、しらずしらずみじめに貧弱に衰弱しきっているのではないか、と疑問が頭をもたげても不思議ではない。
「せめて‘正義の話’くらいしてもいいじゃないか」
と、だれかが思い始めても驚かない。

 富が無限に拡大し続ける前提のもとでは、いとうせいこうも言っているように、正義の話なんてするのは「ださい」と思われてきた。なぜなら、富が無限であるなら、論理的には、もし、正体不明の正義なんてものが損なわれたとしても、放っておけばそのうち回復することが保証されていることになる。それを、あえて取り沙汰することは、実際に「ださい」と感じるのが正しかった。
 しかし、その時代が終わった。その時代って言うのは、たぶん、近代が終わったということなんだろうと思う。いまは、ちょっと触れておくだけにしたいのだけれど、富だけでなく、なにかが「増えていく」という概念自体が、実は、近代の特徴であった可能性もある。近代はキリスト教の文化だからだ。
 線的な無限という幻想の時代が終わったのだとすれば、それは、時間的にだけではなく、空間的な幻想にも当てはまるのではないか。
 つまり、無限に「右」と「左」に引き延ばされた線上に、自分の立ち位置を計っていた時代も終わった。「右」「左」「中」と三つしか目盛りのない便利なモノサシが意味をなさなくなった今、わたしたちは、ありとあらゆることについて、正義を考えなければならなくなったともいえる。
 堀江貴文の『拝金』について語っている二人、飯田泰之坂口恭平も面白かった。
 飯田泰之は、堀江貴文が逮捕されたときの「旧メディア」とネットの世論の差を指摘して、「きれいごとばかりで実際は嘘だらけの旧メディアよりも、お金が大事だとあえて言った堀江の方が詐欺性がないんじゃないか」と書いている。

 僕自身、堀江さんがあの事件で退場したことは、日本の未来にとって痛恨の事態だったと思っています。ともかく、この事件が日本の人々、特に若い世代に残した大きな遺産の一つが、「旧メデイアは信頼できない」という認識だったのではないでしょうか。

 坂口恭平は、ホームレスにユニークなアプローチをしている芸術家だが、堀江貴文のこの著書に書かれている思考法が、一部のホームレスと共通していることに驚いている。
 飯田泰之の言う「旧メディア」、この世界の「システム」の外側に出ることで、見える世界があるのは当然だろう。この文章は立ち読みでも、全文読んでみることをおすすめできる。
 雑誌の話題ついでに、文藝春秋の弔辞特集も読んだ。
 柳家小三治の小さんへの弔辞は、人柄がにじむものだった。