「沖縄・終わらない戦後」

knockeye2011-04-19

 阪神淡路大震災のとき、パンドラの箱の底に残ったほどの小さな幸運があったとしたら、それは、発生時刻が午前5時46分と早朝だったことで、神戸のような大都会で、あれが昼間だったらと思うとぞっとする。
 それと同じような意味で、今回の大震災に、ちいさな幸運を見出すとすると、それは3月11日という、学生さんたちの春休みに重なっていたことだろう。
 数多くの若い人たちが、被災地に参集して、復旧のお手伝いをしていると聞いている。
 今、その人たちは、自分たちがすごくよいことをしていると思っているはずだが、実際には、自分たちで思っているより、ずっと、はるかによいことをしている。
 やがて、たぶんずっと未来の話になると思うが、その実りの豊かさに驚く、刈り入れの日を迎えることになるだろう。
 あなたたちの今の行いが、あなたたちの老いを惨めにしないだろう。そのことの意味はしばらくわからないと思うが、別に今からわかる必要はない。あなたたちの流している汗に祝福を。誰もがそのような汗に恵まれるわけではない。
 週刊SPA!の鴻上尚史のコラムで初めて知ったのだが、この4月10日に、東京の高円寺で、一万人を超える大規模な反原発デモがあったそうだ。
 これを書いている今は、その10日後なわけだけれど、その間、そんな報道には一切お目にかからなかった。まずはそれに驚かずにおれない。
 「ひとつになろう」とか、そのへんのちんけな芸能人にテレビで言わせて、一万人規模のデモを黙殺することが、この国のマスコミの態度であるなら、やっぱり、ひとつになっちゃだめだ。ひとつになることは、この黙殺に荷担することにすぎないのだろう。
 先日、話がそれて、書き損ねたけれど、日曜日に、「沖縄・終わらない戦後」という、横浜の新聞博物館で開かれている写真展に出かけてきた。
 人は、自分の醜さから目を背ければ背けるほど醜くなるのだと思った。
 過去の過ち、不都合なこと、重い課題、そういったことを全部、人任せにして、遠くに追いやって、こどもたちの目に触れないようにして、自分たちの国は、美しい国だ、とてつもない国だ、強い国だと言い張っても、厚化粧の下から匂い立ってくる腐臭を隠すすべはない。
 戦後しばらくして帰国した、ブラジル移民の写真が印象的だった。日本の敗戦を認めない、いわゆる「勝ち組」の人で、その人が、「日本が戦争に負けていない」と主張する根拠は、天皇陛下が生きているということなのだそうだった。「もし日本が戦争に負けたのなら、天皇陛下が生きているはずはない。しかし、現に天皇陛下は生きている。よって、日本は戦争に負けていない」という三段論法である。
 この人の思い詰めた目の強さに拮抗できるのは、歯の浮くようなきれいごとはなく、正確な事実をもってするしかないだろう。無能だから負けたんです、汚いから裏切ったんですという事実だけが、過去を断ち切ることができる。
 考えてみると、日本人のほとんどが、この人みたいに「勝ち組」なのかもな。「日本の官僚は優秀です」みたいなことを言っているのは、たんにそういうことなのかもな。

* 追記
 4月23日の朝刊に、日本軍が、沖縄の人たちに自殺を強要したことをめぐり、争われていた裁判が、大江健三郎の勝訴で決着したという記事があった。 
 自殺を強要した側の、元軍人が、名誉毀損で訴えていたそうなのだが、この‘名誉’という言葉の使われ方には、なにかグロテスクなものを感じる。
 裁判上の用語としては、それでいいのだろうけれど、ことばの本来の感覚では、もし、名誉を重んずる人間なら、こんな裁判自体おこさないはずだと思える。何をどう言いつくろおうとも、この軍人の不名誉は雪ぎようがなく、こういうことは典型的な‘恥の上塗り’というべきものだ。 
 彼らが重んじているのは、‘名誉’ではなく‘面子’にすぎず、そのことは、旧日本軍の軍人が、いかに官僚的であったかの、よい傍証なのだろう。