官僚の‘優秀’幻想

 小沢一郎が「今さらレベル7とは何だ」と怒って、倒閣運動を始めているらしい。
 しかし、一般国民の目から見ると、そのこと自体が「今さら何だ」と思えなくもない。
 たしかに菅直人という人のリーダーシップの欠如には、いらだちを感じる。震災の対策を自民党総裁に丸投げしようとしてみたり、やたらに大連立を画策してみたり、の行動の裏には、責任を逃れたいか、少なくとも、すすんで責任を負おうとする意志がないだけは明らかだろう。
 しかし、小沢一郎にしても、震災後一ヶ月の沈黙のあとで、またぞろやり始めるのは首の挿げ替えか、となると、菅直人がいかに頼りないにしても、小沢一郎に取って代わったところで、代わり映えがするとは思えない。
 被災地の岩手が選挙区であることを思えば、政治家としての小沢一郎に、今できることが、この首の挿げ替え運動だけなのだとすると、それは、この人の政治家としての限界を、無残に露呈してしまっていると、私には見える。
 この人の場合、細川政権の時も、鳩山政権の時も、政権を取ったとたんに、推進力が消え失せる。それは、政権のヴィジョンがないか、あるいは、ヴィジョンがあったとしても、それを推し進めていくリーダーシップが、この人にも、ないかのどちらかだろうと思える。
 みんなの党の躍進について書いたときの繰り返しになるが、この国の最大の問題は、政・官・財、そして、マスコミの癒着で、相互の監視機能が働かないことである。
 今回の原発事故については、内閣府原子力安全委員会経済産業省原子力安全・保安院と、その監督対象であるはずの東京電力が、事実上、一体化して、なぁなぁで原子力政策を推進してきた結果が、傷口を広げた。
 じっさい、事故直後の日経新聞には、「官民一体で進めてきた原子力政策に・・・」という記事が載った。
 ‘一体となる’とか‘ひとつになる’とかを、なにかよいことのように言いがちだが、言い方を換えれば、‘もたれ合い’にすぎず、多くの場合、それは、責任の所在を曖昧にさせるだけだ。
(*追記 もたれ合いでもまだひびきがきれいだ。大阪弁にすると意味がはっきりする。‘どがじゃがにしときまひょ’ということである)
 歴史に照らしても、‘百万人が行けども我ひとり行かず’という行為が、価値のある果実を実らせてきたし、本来は、そういうことを‘優秀’と呼びならわしてきたのであって、先人の引いたレールを行くしか能のない高偏差値連中を、‘優秀’と呼ぶのは、高度経済成長という特異的な状況下での奇習にすぎない。
(*追記 高学歴だけが人生唯一の価値観という生き方も別に否定はしない。問題は、そんなお坊ちゃんに行政のイニシアチブを任せて大丈夫かということ)
 これも繰り返しになるけれど、今、日本が置かれている状況を目の当たりにして、なお、‘日本の官僚は優秀だ’などと思えること自体が、低能の証明なのである。
 今回は、大震災という天災が隠れ蓑になっていてわかりにくいが、このような、政官財とマスコミの癒着がもたらした弊害は、いままでもいやというほど目にしているはずだ。
 たとえば、同じ電力会社、関西電力出し平ダムの排砂、あるいは、諫早湾干拓事業の、専門家による環境アセスメントが、国民の信頼に応えただろうか?
 6兆円ものウルグアイラウンド対策費が農家を潤しただろうか?
 今回、もし復興のための費用が増税でまかなわれるとしても、その何分の一が実際に被災者のために使われるのか、国民の多くが不審に思っているのは事実だろうと思う。
 こういうすべてのことが、政治が官僚をコントロールできないことから生じている。
 郵政選挙政権交代の選挙を通じて、国民が示した意志は、官僚が行政をほしいままにしていることへの断固とした拒絶だった。
 中曽根内閣の私的諮問機関とか、小泉内閣経済財政諮問会議など、枠組みは現行法でも何とでもなる。
 しかし、政治家がリーダーシップをとらなければどうしようもない。
 日本は、戦争の荒廃から復興した、みたいなことを、今、盛んに耳にするが、その戦争の荒廃自体が、すでに軍官僚の暴走の結果なのだし、そのあと、復興の末に蓄えた富の運用に、この国の官僚が、自ら任じているらしい‘優秀さ’にふさわしいマネジメント能力を発揮したかどうか、目を開いてよく見ろ。
 今まで何度か書いてきたけれど、官僚というのは、とくにこの国のようなムラ社会の官僚は、頭のない大蛇といっしょだ。胴体の神経だけでのたうちまわっている。その際、その神経が‘優秀’かどうかは問題ではない。
 石破茂が『昭和16年夏の敗戦』を示して、菅直人に言ったように、シビリアンコントロールが絶対に必要なのである。
 それができなければ、「日本は強い国」なんて、ちゃんちゃらおかしい。