『親鸞 [決定版]』

親鸞 決定版

親鸞 決定版

 自粛なんて馬鹿げているとわかっているが、そんな気でなくても、なんとなく出かける気がせず、ぼんやりとすごしてしまう。
 先週末、会社の上司が、奥さんが登録している、ボランティアネットワークからの要請で、一晩かけて岩手まで出向いて、倒壊した家が解体される前に、個人的な思い出の品を救い出そうとしたそうだが、思った以上に津波の被害がひどく、その人の家の中にあるものでも、その人の所有なのかわからないありさまで、法的な問題があるので、結局、何も手をつけられないまま、解体が始められてしまったそうだった。
 何かできることはないだろうかと思ってみても、現実には、わずかな募金くらいしかできない無力感は、思っているより深く、人の心に突き刺さっている。
 それでも、そのときに「ひとつになろう」は、やっぱりウソだと思う。そうした惨めさには、ひとりで耐えるしかない。そんな思いをみんなと共有したいとか、少なくとも、引け目に感じていることだけでも、示したいという気持ちが、なんとなくの自粛ムードになるのだろうけれど、そんな自粛は、やはり、欺瞞でしかない。
 そんな自分の心の欺瞞には、今さら目を背けるまでもない。こういうとき、どんどん内向していってしまうのは、私の性格なのだろうけれど、年の功か、厚かましくなったのか、このころはある程度のところで、歯止めがかけられるようになった。落ち込むこと自体がまったくの欺瞞だと、いつかの時点で、気がついたんだと思う。
 読書の話題。吉本隆明の『親鸞[決定版]』。
つながりで、上の話が‘フリ’みたいになってしまうが、そうではなく、震災の前から読んでたの。そして、ふだんないことに、読み返していた。須賀敦子の『ユルスナールの靴』以来。
 前にも書いたかもしれないが、吉本隆明という人は、難しいことを平明に書ける、私が知っているただひとりの人である。
 せっかく平明に書いてあるものを、「実はすっごく難しいことを書いてる」みたいな紹介の仕方をするのは、自分のアホをさらすだけだし、それはしないでおこうと思う。宗教について書くつもりではないという言い訳だけで、行数を費やしてしまうことになるだろうから。ただ、主著『教行信証』に、親鸞の核心はないとしたところに、吉本隆明という人がいると思う。
 それで、ブログはブログらしく、まったく断章的に、今回の震災と奇しくも呼応して、印象に残ったところをとりあげたい。

 さきの消息文で、親鸞が「老少男女多くの人々の死」といっているのは、文応元年(1260)前後の飢餓と災厄をさしている。この多数の死が、天候不順による不作のせいか、地震によるものかはほんとうは不詳である。文応元年より三年前の正嘉元年(1257)には、関東南部にM七.○程度の大規模な地震があり、鎌倉では寺社は全滅し、山くずれ、家屋転倒、地割れが生じた。また、三陸沿岸で津波がおこり、多数の被害がでたことが知られている。また、親鸞の妻・恵信尼の消息文に、飢餓のことに直接触れたものがある。これは、文応元年より二、三年後の弘長二年(1262)または三年(1263)のことであるとおもわれる。

 歎異抄にある「聖道の慈悲、浄土の慈悲」ということは、真宗門徒にとって、耳になじんでいる事だと思う。
 しかし、6600人もの人が亡くなった阪神淡路大震災から、わずか16年しかたたないというのに、まだわからないとはいうものの、死者が三万人になんなんとする大災害に再びみまわれた今は、改めて、その言葉の深さや覚悟の重さに、思いがさまよっていく。
 無常迅速であること、死がいつもそこにあることは、仏教の本質であるはずなのに、こういうときに気づかされることは、結局、私たちはそのことを忘れている。
 死とは何か、死を包括しない思想が、人々に説得力を持たないのは、こういうときにこそむしろ当然のはずだろう。
 世田谷美術館で開かれている、白洲正子の展覧会について書いたときにもふれたかしれないが、明恵は‘よき保守’だと思うけれど、死を目の前に据えた人々に、訴求力を持ちえたかというと、私にはそうは思えない。ただ、白洲正子が指摘しているほんとうのことは、死を観念としてもてあそんで、生を軽んじることへの苦言だと思っている。
 『かくれ里』にはこういう文がある。

 現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現れないし、私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない。そういう自明なことが忘れられたから、宗教も芸術も堕落したのである。

 緑内障を患っているときにも、堆朱の盆の真贋を見分けた、白洲正子がこれをいうからこそ説得力がある。あの展覧会について書いたとき、白洲正子の身体性ということを書いたのは、こういった意味であった。
 しかし、また別の箇所にはこうも書いている。

 かつては比良山から花折峠に至る、広大な地域を占めたシコブチ明神も、今は末社として、地主神社の横に祀られているにすぎない。が、それは日本の自然神が、当然落ちゆく運命であったろう。彼らはしばしば老翁と化して現れるが、それは年とりすぎたことを示しており、新しい神を欲した民衆の求めに応じて、仏を紹介するのが彼らに課せられた役目であった。

 形式がいかに重要であっても、それでも、そこに盛られるべき思想が、それよりも重要なのは自明だ。本物の思想家がそうやすやすと現れないからといって、形式が内容より重要だということにはならない。
 明恵の有名な「夢の記」の晩年には、法然が現れる。それを記し残したことは、ある意味では明恵という人のすごみでもある。
 ことしは、法然上人の800回忌だった。
 吉本隆明は、この‘決定版’のために、「法然親鸞」という文章を書き下ろして、冒頭においた。この本を読み終えたあと、もう一度この文章を読むと、法然親鸞というふたりの縁のあり方が、深みを増して見えてくる。
 歎異抄第二章に「たとえ法然上人に騙されて、念仏をして地獄に落ちても後悔しない」といった親鸞聖人の心情の一端なりとも感じられる気がする。
 このことばには、自己の、死と罪と救いが同時に語られている。こういう言葉は、並大抵の思想家の口から聞かれることはないと思う。