年賀状の話

knockeye2012-12-31

 年賀状をださなくなったのはいつごろだったかもう憶えていないが、遅くとも、大学を途中で辞めて、社会とのつながりを絶ってしまった頃には、止めていたのにまちがいない。おそらくそうでなくても、折り目節目のあいさつのようなことが、だんだん自分の生活感覚にそぐわなくなってきてはいた。
 たとえば、‘あけましておめでとう’などということばを意味に解体しても、そこには何も残らないのはあたりまえだが、ある時期のわたしは、その意味にさえもつまずいて、あいさつがうまく口をついてでなかった。それが属する文化の外側から見れば、どんな儀礼の形式も奇妙にしか見えない、みたいなことが、原武史の本にも書いてあった。その意味では、そのころのわたしは、自分が属する社会を完全に喪失していた。おそらく、当時の自意識は、社会からはじき出されていると感じていただろうが、そうではない。わたしはどんな社会にも属していなかった。わたしのまわりにはどんな社会もなかった。
 転校を繰り返す少年としての当時のわたしの挫折が、どのような構造をしていたか、今のわたしは思い描いてみることができる。わたしにとって違和感を感じさせない儀礼の形式などというものはなかった。だから、わたしはすべての社会に拒否反応をおこしていたが、今にして思えば、ほんとうは、そうあるべきではなく、私自身にしっくりとくる儀礼の形式を創出するべきだった。社会がないのなら作るべきだった。そして、その方法論こそが儀礼の形式だった。
 しかし、それはいまだから分かることだ。なんとかかんとか生き延びた今だからということだろう。
 この頃は、毎年、一枚だけ年賀状を出す。こんなことをして意味があるのかな、とか、迷惑なんじゃないか、とか、おそらく多くの人は思いもしない迷いに躊躇しながら、一応、投函している。
 そして、思うことは、私自身が捏造した、私自身にしか通じないそうした儀礼の形式が、わたしに仮想の社会を作り出させているということと、結局、そういう仮想の社会さえあれば、現実の社会と互していけるということ。
 東洋経済onLINEに村上隆のインタビューがあって、「世界の第一線で活躍するのに重要なことは何でしょうか?」という質問に

勘を鍛えて、上手なあいさつを身に付けて、ルールをスキャンすることです。

と答えていた。
 そして、

あいさつというのは人間関係の前提状況を造る設定です。あいさつを交わすことによって、場が設定され、事物の進行の前提状況ができます。そのときに、勘のいい人間は、相手と自分の距離を瞬時に測ることができます。

とも。
 あいさつは‘場’を決定する。つまり、あいさつが、その場のルールを、さっきから書いている言葉に直せば、儀礼の形式がその社会を決定する。すべてのアートはコミュニケーションなので、社会がなければアートも存在しない。アーチストがルールをスキャンする能力に長けているのは当然だろう。
 ‘だから、あいさつは大事です’みたいなことをいいたいのではなくて、そうした儀礼の形式から社会を見つめてみることができるはずで、社会のリアルを無視したイデオロギーではない、そうした著作に最近は出会うようになった。先に挙げた原武史もそうだし、今読んでいる坪内祐三もそうだろう。
 2012年には吉本隆明が亡くなったが、そのこどもくらいの年代の人たちに、こうしたリアルな思想が生まれてきているのはおもしろいことだなと思う。