お孫さんまつり

knockeye2013-08-25

 日経ウエブに鈴木幸一という人が書いているブログは、‘面白くてためになる’といった教養文学系の文章で、けっこう読んでいる。この20日の分は、先日紹介したオリバー・ストーンの発言と相俟って、考えさせられることがあったので、ちょっと紹介したい。
 明治以降の財政史を研究しているお友達の本について書いている。その本の焦点は、軍部の跋扈から太平洋戦争に至った日本の悲劇を、財政面から実証的に跡付けることだそうで、

 2.26事件時の日本は、持たざる国ではなく、世界的に羨ましがられるほど経済的に持てる国であった。にもかかわらず、持てる国が持たざる国に陥ったのは、財政を無視した軍部の独走であった。盧溝橋事件を経て、軍部の独走を許し、決定的な財政破綻に陥る過程を読むにつけ、冷徹な「知」が働かなくなる歴史の怖さと虚しさを、改めて、思い知らされる。満州、北支への支配は、日本の富を浪費しただけだったことは言うまでもない。

 あるいは、ここまでは耳慣れているかもしれない。しかし、なぜ、政治が軍部の独走を抑止する力を持ちえなかったのかについて、

 維新の元勲たちが健在の間、日本の首相の人事というか、そのポストはずいぶんと軽んじられていたのだという指摘があって、興味深かった。明治の元勲が老いて、その影響力が消える過程で、首相を軽んじてきたというツケが、結果的には大きなものとなったのかもしれない。

 横浜市長選挙も,先の参議院選挙も、投票率が史上最低とかだそうだが、日本では、表の政治のプロセス以外に、裏のプロセスがあって、実質的に政治の行方を決めているのは、裏のプロセスの方であることは、ほとんど子供でも知っていて、選挙で何も変わらないというその感覚は、正確なものだとさえいえる。
 しかし、その源流が、1941年体制どころか、明治の元勲にあって、官僚が国民の意思を軽んじて(例を挙げれば暇がない、経済財政諮問会議郵政民営化、歳入庁、捜査の可視化、脱原発、すべて,官僚がなし崩しにするか、骨抜きにしている)、あたかも自分たちが主権者かのように振る舞うのは、彼らがいまだに明治の元勲の権威を笠に着ているのだとすれば、これは笑わせるけれども、ぞっとする。
 おそらく、官僚になるたぐいのエリートは、子どものころから自分たちの優秀さを疑ったことがないだろう。だから、バカなのだ。この国の今の状況は、彼らがバカである証拠以外の何ものでもない。にもかかわらず、明治の元勲のつもりでいられるのは、それをバカと言ってはいけないという人がいれば、おそらくそのひともバカなのだろう。
 オリバー・ストーンのみならず、この国に生まれ育ったもの以外は、理解できないかもしれない、この国の政治が抱えている最大の問題点は、あいかわらず、官僚主義でありつづけている。東日本大震災のときに発揮されたような、日本人一般の道徳意識が政治に反映しないのは、官僚というこの国の病巣が阻害しているからだ。
 この前、谷文晁について書いたとき、松平定信にふれたが、この人が、朱子学以外のすべての学問を禁じたのは、ペリー来航の60年前。これをたとえば,今から60年前に,英語を禁止して、日本は神の国だとか言っていたら,この国はどうなっただろうか。寛政の改革の本質をつきつめていえば、‘自分は徳川吉宗の孫だ’というに尽きる。当時の官僚たちは,それにすべてを賭け、さらにバカげたことには、それでけっこう満足していた。
「よのなかに かほどうるさきものはなし ぶんぶといふて 夜もねられず」
 この大田南畝狂歌一首のほうが、はるかに正しかった。
 冷泉彰彦が、もしかしたら、第一次安倍内閣のときだったかもしれない、書いていたのは、「河野談話の見直し」とか、いまさらなんでそんなことを持ち出してるのか?という、そもそもの疑問だった。考えてみれば、安倍晋三というひとの最大の関心事は、国民の利益ではなく、じっちゃんの名誉なのかもしれない。アベノミクスは、崩壊寸前で、成長戦略といったところで、役人にビジネスセンスがあるはずもなく、既得権益構造に手をつけて、金の流れをよくしなければならないが、この人の原発に対する態度を見ていると、これはほぼ絶望的。原発ムラは典型的な既得権益構造だから、これに対する態度を見れば、口でどう言おうと、本気で既得権に手をつけるかどうか分かる。その意思がないのであれば,その先はない。