オープンな才能、クローズな才能

knockeye2013-10-23

 「笑っていいとも!」が終わる。といってもこれといった感慨もないけれど、アメリカのQE2もうらやむ、あざやかな出口戦略。清水ミチコが言ってたそうだが、引退を宣言できるタレントは、ごくひとにぎりのめぐまれたひとたちだけで、大概のタレントはいつの間にか消えている。いわれてみればたしかにそうだ。島田紳助みたいに、引退してもバッシングされるケースもあるけれど、それでもあれはあれで悪くない引き際だったと思う。
 私の記憶では、「笑っていいとも!」が今みたいなかたちになったのは、明石家さんまが金曜日のレギュラーになってからだ。それまでは、タモリもけっこう自分のカラーにこだわっていた。「タモリは暗い」とかいわれたのを憶えている。でも、たぶん、さんまさんと金曜日にトークをするようになってから、タモさんはいまのタモさんになった。受信する側にまわるっていう技を身につけた。オープンになった。
 ダウンタウンが出始めの頃、いじめられてたのを憶えている。それをいうと、明石家さんまとんねるずもそうなんだけど、あれは、才能を認めたということだったんだろう。
 「R100」について、岡田斗司夫が、

と、ツィートしていたけど、このバッシングについては、映画のよしあしとは別に、松本人志をバッシングするというイベントでもりあがりたいだけなんじゃないかと、ふと思った。
 一般化して言えば、映画やテレビ番組の価値には興味がなく、それきっかけの、ネットのイベントに惹きつけられる、そういう大衆のあり方ができあがりつつあるのではないか。たとえば、「あまちゃん」とか「半沢直樹」のブームは、そういう視点からもながめられるのかも。
 それで、オープンな才能、クローズな才能ということについて、ちょっと考えてみた。タモリという才能はオープンなもので、色彩を持たない構造物、駅みたいなもので、いろんな色彩を持った才能がそこを通過していく。
 一方で、北野武にしても、松本人志にしても、彼らはクローズな才能で、観客は彼らの世界に入り込んで、その闇に身を潜めてみなければならない。構造物にたとえれば、駅ではなくやっぱり映画館なんだろう。
 鴻上尚史が、ニコニコ動画のコメントのようなものが、自分の舞台に流れたとしたら、それだけでぶちこわしになる、みたいなことを、コラムに書いていた。それは多くの作品でその通りのはずだ。
 でも、「笑っていいとも!」にコメントが流れても、べつに何でもない。あたりまえっちゃあたりまえなんだけど、ただ、それは「笑っていいとも!」がオープンな構造だからOKなので、そういう観客の介入が拒否される、クローズな構造も当然ありますよっていうことが、理解されなくなってきているのではないか、いいかえれば、ネットで簡単につながれるようになった結果、他者という概念が感覚として把握できない世代が生まれつつあるのではないか。で、そういう人たちは、クローズな世界観を前にすると、拒否以外の何ものも感じられないか、あるいはすくなくとも、拒否をもっとも強い要素として感じるのではないか、と、そんなことを思ってみた。