特定秘密保護法を警察の権力拡大という視点から見る

knockeye2014-03-02

 日曜日の新聞の、「特定秘密保護法を問う」というシリーズに、青木理が書いていた内容が、これまでこの特定秘密保護法をめぐる議論について、なにかしっくりこないなぁと思っていたもやもやを解消してくれた。
 結局のところ、この特定秘密保護法でいちばん得するのは、警察権力なのだ。法律のたたき台を作ったのは、内閣情報調査室、歴代、公安出身の警察官僚がつとめてきた。公安はつまるところ戦前の特高警察の残党である。
 この法律が対象にする特定秘密は、1、外交、2,防衛、3,スパイ防止、4,テロ防止、の4項目で、その指定の権限は、各行政機関の長にあるので、3と4に関しては、警察の官僚が独自に指定できる。つまり、政治の抑止力が働かない。
 三権分立は、立法、行政、司法の権力が互いに監視し、抑制しあって、権力が暴走しないように図られているのだが、今世紀に入ってからの司法をめぐる制度改革は、特に、警察の権力をフリーハンドにさせすぎている。
 たとえば、裁判員制度だけれど、そもそもなぜそんな制度が必要だったのか?。それが特に裁判の公正さに資するとも思えないが、もし、裁判員を警察官僚が恣意的に選べるとしたら、それは権力の暴走だし、それに関するチェックは事実上あやふやだと思う。
 また、たとえば、検察審査会だが、これは小沢一郎をめぐる事件で、その異常さが明らかになったように、検察が不起訴ときめたものを、妥当じゃないとかいちゃもんをつけて、起訴できちゃう制度なのだ。
 そして、その検察審査会のメンバーもどうやって選んでるのか、誰がやっているのか、事実上、チェックできていないと思う。現に、任意に選ばれたはずのメンバーの、発表された平均年齢が異様に若く、もし、メンバーが任意に選ばれたなら、平均年齢がそうなる確率は「0・00067%」のはずだと、上杉隆が指摘したことがあった。私の記憶では、計算間違いだったとして訂正されたはず(完全になめてる)。
 今世紀に入ってからの一連の改革で、警察は、起訴したいと思えば、誰でも起訴できるし、裁判の内容にも介入できるようになった。そして、逮捕がやりたい放題なのは、今更例を挙げるまでもない(それとも挙げようか?。うんざりだろう、もう)。
 この青木理の記事を読んだあと、上杉隆が、4年前、小沢一郎の事件について書いた記事を読み返してみた。上杉隆がテレビで検察批判をしたあと、検察庁担当の社会部記者から入った電話の内容は、背筋が寒くなる。

「お前まずいぞ、(検察側の)実名を出しただろう。『調子に乗りやがって』と、検察は怒っていたぞ。心配して言ってんだ。本当に、気をつけた方がいいぞ」
 彼の話によると、本気でやろうと思えば、痴漢だろうが、交通違反だろうが、あらゆる手段を使ってでも、狙われたら最後、捕ってくるというのだ。たとえば道を歩いていて、他人の敷地に間違えて足を踏み入れただけで不法侵入の疑いで持っていかれるかもしれないということだった。

 そして、一番の問題は、こうした警察権力の暴走を監視しなければならない報道機関が、それどころか、実際は、警察と癒着して、度重なる冤罪事件を経ても、捜査の可視化をもとめるでもなく、検察のリーク記事を垂れ流して、報道機関自身が、冤罪の片棒を担いでいるという現状だと思う。
 このブログ、仕事の片手間に書いているし、体力の問題もあって、なかなか現実の時間に追いつかないのだが、これを書いている最中に、

国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会委員で、モーリシャス最高裁のドマ元判事が6日、東京・霞が関弁護士会館で記者会見し「日本の刑事司法は容疑者の自白に頼り過ぎている」と述べ、改善を求めた。

というニュースが入ってきた。私は、PC遠隔操作事件の例は、証拠もないのに1年以上も拘束するなど、拷問以外の何ものでもないと思う。
 また、4日には、アメリカ国務省が発表した「2013年度の世界の人権状況に関する報告(Country reports on human rights practices for 2013)」も、日本については冒頭に「人権上疑義がある逮捕・拘束など司法制度の欠陥・不備」を指摘している。
 海外から眺めても、日本の警察の異常さが目立ち始めている。
 捜査の完全可視化の実現と、裁判員制度検察審査会の撤廃は、本来、健全なジャーナリズムならとっくに求めているはずのことだ。だからこそ、なによりおそろしいのは、報道機関が、警察と完全に癒着していることで(ライブドア事件などは逮捕の実況中継が行われた。おぞましいとしかいいようがない)、今時代の空気が戦前に似てきているという人がいるが、単に空気だけでなく、この報道と権力の癒着ぶりは、大本営発表を繰り返した、戦前の報道姿勢が、1ミリも動いていないことを示している。それもそのはずで、日本の名だたる報道機関のどれも、戦争協力の謝罪さえしていない。右傾化どころではない、日本のマスコミこそ権力そのものなのだ。