『招く女たち』

knockeye2014-05-03

招く女たち (ブルックナー・コレクション)

招く女たち (ブルックナー・コレクション)

 アニータ・ブルックナー『招く女たち』を読んだ。原題は、“Lewis Percy”と、主人公の名前そのまま。
 『秋のホテル』で、ブッカー賞を受賞したこの女流作家には、心酔して読みつないだ時期があったが、私の変な癖で、あまりにも好きな作品に出会うと、そこでストップしちゃう。アニータ・ブルックナーの場合は『英国の友人』が気に入りすぎて、そこで封印してしまった。
 それが久しぶりに彼女の作品を読んでみる気になったのは、最近、これぞ小説、という本に出会えなくてフラストレーションが溜まっていたのかもしれない。
 て、書いて、気になってふりかえってみたけど、吉行淳之介の『鞄の中身』は短編ですし、長編で「これぞ」という読後感まで遡ろうとすると、マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』とか、江國香織の『抱擁、あるいはライスには塩を』くらいから「これぞ」というのにはあたっていなかったのかもしれない。
 そういう意味では、アニータ・ブルックナーには裏切られる心配がなくてよいのだが、一面、私自身がそこで止まってるんじゃないかっていう、一抹の不安はある。今度のもどストライクだったから。
 アニータ・ブルックナーが、やっぱりすごいなと思うのは、あげやすい例をいうと、ペンとジョージ(という登場人物がいるのだけれど)がどういう関係か、くどくどした説明は一言もなしで読者にわからせる。そういう匠の技にであうとやっぱりうれしいんですよね。
 しかし、そういうのは、私がこのブログに書いたりする、手に負える一例にすぎなくて、ルイスとティシーの関係、ルイスとエミーの関係、ミセス・ハーパーとかゴールズバラのキャラクター造型、それに、イギリスの階級社会のあり方とか、簡潔な筆致でさらさらと、しかもあるべき位置に、オーケストラの打楽器みたいに、みごとに入り込んで、主旋律を引き立てている。
 1990年という現在に正確でありながら、小説は可能かという問いを余裕でクリアしている。
 しかし、2014年という現在の道具立てはさらにややこしくなっているかもしれない。インターネットの時代に小説は可能か、ということは、つまり、インターネットの時代に、小説が超えなければならない壁とは何か、について誰がどれほど自覚的なのか。