アイデンティティとしての反日について

knockeye2015-12-11

 在特会に限らず、あの辺の差別主義者が、特に収入とか、学歴とかに関係なく、社会に一定の割合で混じりこむのは何故なんだろうと、不思議に思っていた。
 でも、靖国神社のトイレを爆破した韓国人の顔写真の、悪びれる風もない、どちらかと言えば「ドヤ顔」を見ていて、こういう人にとっては、反日とか親日とかが、アイデンティティに関わっているんだなと考えると、いろいろわかる気がする。トイレを出てあんな晴れやかな顔をしているのは、彼を除けば、ストッパのCMに出てたサバンナ高橋くらいだろう。
 自分が何者であるかと悩んだことがない人には、アイデンティティなんて、一時の流行り言葉にすぎないだろうが、実際に、自分が何者であるか知らないと感じるむなしさは、たとえば、ずっと出自を知らずにいた北大路魯山人が、それが、京都の神職の家柄と知ったときの喜びとか、横山やすしが、自分の本当の母親を知った時の話とかを本で読むと、一時期流行った「自分探し」とかの、浮ついた感じとはまったく違う、切実な自己喪失感がある。
 わたし自身は、自分が日本人であることを疑ったことがない一方では、祖先をずっと遡っていけば、どこかで、中国、朝鮮、東南アジア、中央アジア、あるいは、もっと遠い国々の人の血が混じっているに違いないだろうと思うし、それに、だとしても、だからどうしたの?、としか思わない。
 自分は日本人には違いないけど、それが何?、ってことで、つまり、日本人てふ、私の属性の一つに、ふだんは、さほど注意を払っていない。これは、在日の外国人の人たちも、同じようなものなんじゃないかなと思ってきた。しかし、案外、そうでもないかもしれない。別に、何とも思ってない人がいるかもしれない一方では、魯山人横山やすしと同じような屈折を抱えている人がいても不思議ではない。
 というより、そういう屈折なら、それが、民族性に起因するものでなければ、誰でも多かれ少なかれ抱えているものだろう。特に、まだ自我を確立していない、若い頃には。
 在特会界隈のヘイト連中や、慰安婦像建立マニアとか、今回の靖国便所爆破犯とかは、では、何が違うのかと考えると、多分、自我意識のベクトルが逆向きじゃないだろうか。まっとうな人が、他者との軋轢や葛藤を経て、自我を確立してゆくのに対し、差別主義者は、まず、自我があって、それが他者に軋轢を与えてゆく。その自我は、試練にさらされていない、ただの我執にすぎない。そういう傾向、差別主義者によく見られると思いませんか?。平たく言えば、頑固で幼稚。
 靖国なんて、参拝する方も参拝する方なんだが、ただ、それを爆破するのも、似た者同士だとしか思えない。あんなもの、参拝する値打ちも、爆破する値打ちもない。
 ただ、最初の話に戻ると、韓国人のアイデンティティてふものは、親日反日しかないなんてことは、ないと思うけどね。軍事独裁政権から、民主化を実現した韓国民を、わたしは尊敬していたし、金大中は立派な政治家だったと思う。この政治観の正否、真偽がどうあろうと、それは、韓国民のアイデンティティの真偽には、関与しないはずである。なので、朴正煕の娘が大統領になったについては、何かイヤな感じがした。「誇り高きハングル世代」の歴史観と齟齬をきたしているように思ったのは、それはまあわたしの勝手な思いにすぎないけれど。