『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』

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 『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は、ビリー・ジーン・キングを演じたエマ・ストーンも、もちろん素晴らしいが、なんと言っても、ボビー・リッグスを演じたスティーヴ・カレルが圧倒的。『30年後の同窓会』で、イラク戦争で息子を亡くしたベトナム帰還兵を演じたあの人だよねと、最後まで半信半疑だったくらい。
 ボビー・リッグズは、かつてウインブルドンも制した名選手だったが、当時は55歳、シニアのプレーヤーだった。
 ビリー・ジーン・キングは、男女の賞金格差に異議を唱えて、女子テニス協会を立ち上げたばかり。シニア賞金に不満だったボビー・リッグスは、生来の賭け好きもあって、ここでひと勝負を目論む。つまり、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(これは映画のタイトルというだけでなく、当時からこの試合がそう呼ばれた)は、「バトル・オブ・エイジーズ」の側面もあったわけだ。
 まだ記憶に新しいことでもあり、この映画は当時のことをかなり忠実に再現している。ボビー・リッグスのパフォーマンスもGoogleで検索するとほぼ映画どおりの写真が出てくる。



これでビリー・ジーン・キングが負けたらシャレにならなかった。でも、先に対戦したマーガレット・コートはストレート負け。これも実力だけを比べれば、マーガレット・コートが勝ってもおかしくないはずだから、女が男に勝つことに対する、無言の社会的圧力が強かったと言えるだろう。
 ボビー・リッグスが、いわば「果たし状」を叩きつけた「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」は、3万人の観客を集め、発足したばかりの女子テニスツアーの人気に火をつけたのは間違いないとおもう。
 ボビー・リッグスに悪意はなかったろう。というか、そもそも勝ち負けにこだわってたかどうか。ウケることが最優先だったみたいに見える。映画のビリー・ジーンも、「ボビーはパフォーマンスでやってるだけ」と言う。でも、今だったらどうだろう?。ネットでバカが騒いで試合が成立しなかったかもしれない。 
 今年の初めに、ダウンタウンの浜ちゃんが、年末の番組に顔を黒塗りしたとかで、奇怪な議論が巻き起こったことがあった。浜ちゃんに黒人を差別する意識がなかったことは明らかだし、演じる側も見る側も誰もそれを差別だと思っていない、だけでなく、その議論の発端を作ったアメリカの弁護士も、そこに差別を感じた訳でもなかった。
 じゃあ、なにがしたかったのか?。今振り返っても訳の分からない出来事だった。昨日のジェームズ・ボールドウィンと比べて、なんとも奇妙な時代を生きているとおもう。心の中が空っぽな連中がとりあえず「怒ってみた」みたいな時代らしい。
 「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」みたいなひねりの効いたパフォーマンスは、ちょっと期待できない時代なんだとおもう。
 『チョコレートドーナッツ』のアラン・カミングが、女子テニス協会のウエアデザイナーの役で出ていた。ウインブルドンのテニスウェアは、今でも白一色だが、テニスウェアに色がつき始めたのも実はこの同じ頃だった。発足したばかりの女子テニス協会が、カラフルなウエアを選択する戦略はわかりやすい。70年代は、自由の為に闘うことが求められていた時代だし、それが許容されていた時代でもあった。
 2010年のバンクーバー五輪では、國母和宏選手がユニフォームを腰履きしていたってだけで、マスコミに叩きまくられるという事件があった。彼はそれで謝罪会見まで開く羽目になる。これからオリンピックで試合しようという選手が謝罪会見しなければならなかった。この時、謝罪会見を強要したマスコミにどんなスタンダードがあったのか分からない。こういうバッシングを繰り返し行うことで、自分たちの品位を落としていることに気がつかない程度にバカだから「マスゴミ」という呼称が定着したりする。
 今、「モリカケ問題」でいくら安倍政権を叩いても、政権の支持率が全然落ちないのは、マスコミのバッシングという行為それ自体に信頼性がないからだ。叩きたいから叩く、叩けば誰でも謝る、そう思ってるマスコミが「叩いてるのにどうして支持率が落ちないんだろう?」と首を傾げている姿こそ滑稽だと思うけど、違います?。