照れる

「照れる」は私にとって目下「生きる」より重要な課題である。照れるのは自意識過剰の裏返しだと分かっていても、だからといって「分かりました。もう照れません」とはならない。
現実世界の知り合いにはこのブログおよびHPのURLはおろか、こういう事をやっていること自体、絶対に教えない。デジカメさえ持ち歩かない。今の仕事が気に入っているのもひとり黙々と作業できるからで、仕事より休憩時間の方がむしろ緊張する。同僚が仕事が遅くても気にならない。その分仕事させてもらえるからだ。今日も忘年会兼新入社員の歓迎会だったが、のっけに麦酒をコップに半分ほど飲んで、後はつぶれて突っ伏していた。
前にも言ったことがあるが、「明かりが消えた一人暮らしの部屋に帰るのが寂しい」なんて心理はまったく理解できない。むしろ明かりが消えている方がほっとする。
趣味にしても、美術館巡りは、人がそばにいても、こっちを見ていないので安心できるし、キャンプもみんなたき火を見ているので落ち着ける。落語は噺家が上手と下手を使い分けてバーチャルに会話しているので視線を合わさなくてすむ。たまに視線があったりすると一瞬笑いが止まってしまう。
志ん朝師匠の本で「若い人が寄席に来て、ノートをとりながら聴いてるのがすごく気になる」みたいな事を読むと、ノートなんかとったこともないし、必ずしも若くないにもかかわらず、自分の事じゃないかとどぎまぎしたり、「話を間違えたりするとかえって喜んだりするんですよ」とか書いていると、そういえば「中村仲蔵」でしくじったのを見たけど絶対喜んでない!とか心の中で言い訳したりする。
読書はもちろんのこと、バイクに乗るのも、ヘルメットをかぶれるのが大きな魅力で、私はヘルメットの下にフェイスマスクも欠かさない。あんなものをかぶって町中をうろうろできるのはバイク乗りだけである。しかも法律がかぶれと命令してくれているのだから心強い。
現実の私はかなり印象が薄いはずである。仮面といえば仮面だがむしろペルソナというべきだろう。現実世界で長い間培ってきた人格なのでそれが必ずしもウソではない。同時にこのブログの方が本当の私だともいえない。かなり正直に心情を吐露しているつもりだが、人間、正直なのが本当の姿ではない。
しかし、こういう事だと交友はどうしても広がらない。別に孤独を愛しているわけではないので、「照れる」というのはなかなか問題なのである。