読書のスピードが、増えていく本の量についていかないのは、今に始まったことではないけれど、最近は、雑誌までも手に余るようになって、読まないままの雑誌がその辺に散乱している。
それで、この藤原新也がプレイボーイに連載している記事も、ずいぶん昔のもので、たぶん、三週間くらいは前のものではないかと思う。連載第二十七回とある。
見開きのカラーグラビアで、インドのけして裕福ではないとわかる家族の写真。
キャプションにはこうある。
小泉政権における構造改革は格差社会を生み、あわせて製造業における派遣社員使い捨ては加藤智大を生み落とし、無縁社会を助長させたといえる。
人間と人間の関係の冷え切った、そんなニッポンからインドに飛ぶ。そこにはあのなつかしい人間の楽園がある。
云々。
今まで、このブログで、格差社会てふことについて、いろいろ書いてきたけれど、私がいちばん我慢ならないのは、このたぐいのことだ。
人間関係の冷え切ったという日本から、人間の楽園というインドへ飛んで、裕福ではない家族に向けているカメラの、その後ろと前にある格差には、何も感じないのか。そこにこそ何かを感じなければいけないんじゃないのか。そうでなければ、何をしに、インドにまで行ってるのか。
小泉政権のおかげで格差社会になったとか、派遣切り捨てで無縁社会になったとか、どこかで聞いたようなことを、既成事実のように吹聴して、自分のことは棚に上げて、いったい、この見開きページは何のつもりなんだ?
同じインドでも、石井光太が『物乞う仏陀』に書いたインドとは、あまりにも違う。
前にも、紹介させてもらったけれど、石井光太のウエブサイトにある、レンタルチャイルドについての記事を、ここにもおいておこうと思う。
で、どんどん調べてみると、「手足の切断」についての証言がでてきたんです。 本音をいうと、はじめは「ウソ」だと思っていました。インタビュー料を欲しいばかりに大袈裟な話をしているんじゃないかって。
しかし、誰に聞いても話の内容が一致するんです。手足を切断する年齢とか、コロニーの場所とか、誘拐される子供の数とか。
調べれば調べるほど、真実としか思えなくなってくる。
この時は、本当に参りました。不眠症に陥って、食事がまったくのどを通りません。歩いていても、ボロボロ涙がでてくるんです。
明らかに自分でも頭がおかしくなっていると思っていました。
たぶん、日本に連絡して愚痴の一言でもいえばだいぶ気持も紛れたでしょう。 しかし、当時僕はだれにもこんな取材をしにいくとは言ってませんでした。周囲の人には「遊びに行く」といって出て行ったんです。
というのも、その時僕は単に脱サラをしたばかりの25歳のガキんちょです。出版のあてもまったくありませんでした。とにかく、後先考えずに飛び込んで行っただけだったのです。
だから、偉そうに「実は取材をしていて」とか、「本を書きたくて」なんて言えませんでした。言ったところで、「25歳のガキんちょが書いたアジア旅行の話なんて誰が読むんだ」といわれるのがオチだったからです。
で、一人で毎日何十回と涙を流しながら、せっせと取材をした。それが、本のラストの話になったのです。
藤原新也のキャプションによると、この写真の家族は、泊まったホテルの前に住んでいるそうだ。
つまり、ちょっと飛行機を飛ばして、泊まったホテルの前の家族にカメラを向けて、そして、どこかで聞いたような批判のひとつも書き付ければ、それで、週刊誌の見開きグラビアができあがるというわけ。
それで、いくら稿料をもらうのか知らないけれど、ここには、大前研一がマスコミを批判した、「高見の見物の大衆迎合」以外のなにものもない。
自分のそういう態度に鈍感でいられるからこそ、論理的な検証もない批判を、他人の尻馬に乗って繰り広げられるのだと思う。