特定秘密法をめぐる議論

knockeye2013-12-12

 今週の週刊文春宮崎哲弥
「機密保護法制の整備は、インテリジェンス機関設立、運営のための必要条件であり、“国を戦争に導く”どころか“戦争を避ける”ために不可欠なピースのひとつ」
と書いている。
 ただし、
特定秘密保護法案自体の出来は粗い。とくに『知る権利』との均衡を図るという、この種の法制における最重要の条件の制度的裏付けが手薄・・・」
とも指摘している。
 世間での、特定秘密法をめぐる議論を見ていると、また例によって、いつ果てるともない堂々めぐりに入っているように見える。
 私は、この一ヶ月でもう2回もリンクしているけれど、ハフィントンポストの記事が、重要な指摘はすべてしていると思っているので、その他は派生的な問題だと思う。
 一般の国民にとって、防衛上の秘密を漏らすのはまずいだろう、というのも納得できるし、国民の知る権利を蔑ろにされるのは許せない、というのも納得できる。
 後は、この二つのバランスをどうとるかの議論をすすめていけばよいだけのことなのだし、冷静に考えれば、妥協点を見つけるのはそう難しいことでもないと思うのだが、世間を賑わせている議論を聞いていると、まるで、この二つの命題が絶対矛盾であるかのように、頑なに片方は絶対認めないという態度をとり続けているのは、どうにも子供じみているようにみえる。
 今でさえ、国民の知る権利が完全に守られているわけでもなければ、防衛上の秘密の漏洩を防ぐ手だてが完璧なわけでもないのであれば、少なくとも、今より良い方向に物事を進めていくには何をしなければならないかを議論するのが大人の態度というものだ。
 ハフィントンポストの記事が指摘しているとおり、本質的には、「官僚」対「国民」の対立であるものを、「政治」対「国民」の問題であるかのように論ずるので、堂々めぐりになってしまう。本来、政治は国民の声であるわけだから、政治が国民を、国民が政治を罵りあう今の状況は、自分のしっぽを追いかけ回している犬と同じだ。
 サイバーテロが現実の時代に、防衛上の機密を守る法を整備するのは、むしろ当然だと思うが、いつものように、それに便乗して、自分たちの利益を担保しようとする、官僚の姑息な手段が問題をややこしくしている。秘密の保持期間60年は長すぎるし、秘密にすべき内容であるかどうかは、政治がコントロールするべきだろう。
 この国の最大の問題は、官僚が、法に律せられているという意識を持たず、むしろ、逆に、法は自分たちが勝手にあやつれるカラクリであるかのような意識でいることだろう。それこそが、政治が未熟である良い証拠なわけだ。
 このように考えてくると、政治家が今すべきことは、国民に対して、根気づよく、丁寧に説明することであるはずだが、安倍首相が国民に話しかける言葉は聞こえてこないし、石破茂の「デモはテロだ」とか「報道機関の処罰もありうる」とかの発言は、国民に理解を求める態度とは(それこそが政治家の態度であるべきなのに)とても思えない。
 この問題も、法の問題のように見えて、実は、官僚の問題であることがわかる。官僚をどうやって法の下に律してゆくかという、ちょっと先進国とは思えないような問題が、あいかわらずこの国の最大の課題のようである。