バルテュス展は、ずっと行く気満々だったけど、場所が上野ですから、うっかり寝坊した日は断念せざるえない。絵が好きな人にかぎっていえば、上野の集客力は、渋谷、原宿を軽く凌駕している。
4月19日に始まって、5週間たちましたってところで、すでに図録は完売、ただいま増刷中なので、ご注文いただければ、6月のあたまくらいに‘送料無料’でお届けいたします、だそうです。
ピカソはバルテュスを「20世紀最後の巨匠」と呼んでいたそうです。でも、面白いなと思ったのは、バルテュスは「芸術家」という言葉が大嫌いで、自分は絵の具のマチエールを道具にする「職人」だと言っていたとか。
ピカソは北大路魯山人もすごく気に入っていたらしく、わざわざ面会の機会を設けたりしたんだけど、魯山人の方はピカソに会いには行ったけど、作品を見るなり、あの人、歯に衣着せないから、面と向かっては言わなかったろうけれど(言葉通じないし)、後でけちょんけちょんに言ってる、「線も色も汚い、オレの方が全然上」って。
20世紀は、「芸術」が「職人」より、不当に高く見られる時代ではあったのかもな。その反動で、芸術を低く見る必要はないけれど、職人の技のすごさが見直され始めている感じはある。抽象、具象ということではなく、観念、肉体という意味で。
ピカソ自身は天才だから、その辺は見えてたんだろうなと思う。こないだ横浜美術館に行ったら、レオナール・フジタのこんな言葉が紹介されていた。
「ピカソのような人間が出ると、非常に危険である。今後およそ40年間という間、ピカソは若い犠牲者をひきつれていくわけである。」
バルテュスがこんなに人を惹きつけるのは、無毛のおまんこがあらわになった少女の裸婦なんだろうけれど、バルテュスが少女の裸が美しいといっている意味は、その絵が見せてくれてる。
たとえばこういう絵。
まるで、ハンマースホイのような静かな画面。ここで画家がそそられているのは、香水瓶にあたる柔らかな光の効果だろう。
つまり、バルテュスという画家の美意識は、そういうことに反応するっていうことで、そして、少女の絵を観ていくと、
これなんか特に特徴的なんだけれど、輪郭線はびっくりするくらい直線的なのがわかる。
残念なことに、絵はがきをiPadミニの内蔵カメラで写しているので、肝心のマチエールが全然再現できていないのだけれど、あえて直線的な輪郭で区切られた画面で、色とマチエールでどう質感を表現するかが、バルテュスの挑戦であるように見える。
バルテュスのアトリエを撮影した動画が流されていたけれど、作品を撮影する照明にすごく神経質になっていた。だから、もしバルテュスが上の画像見たら絶句するはず。写真じゃ再現できない。
たとえば、この絵なんて、
実物をよく見ると、少女の瞳に、暖炉の火の照り返しが、かすかに映っている。
それから、
これなんかは、画面の右側から差している光が、少女のわずかな胸のふくらみに与えている質感と、こちら側に投げ出されている左足の腿の量感をマチエールでどう表現するか。
ただ、絵はがきではぜんぜんわかんない。これなんかとくにわかんない。
絵にかぎらず、写真でもそうだけど、杉原杏璃みたいなタイプは比較的絵にしやすい。だけど、胸がぺったんこで、寸胴で、おしりも小さくて、という女性の美しさをどう表現するかは力量をためされる。
バルテュスは来日したとき、案内してくれた当時はたちの日本女性に一目惚れして結婚しちゃった。節子さんっていうんだけど、きれいな人。日本女性の目鼻立ちが、そういうバルテュス好みだったんだと思う。ちなみに、娘さんの春美・クロソフスカ=ド=ローラさんもきれい。ジュエリーデザイナーだそうです。篠山紀信の写真が展示されてました。篠山紀信って人も不思議。どうしてそこにいるんだろう。「Balthus Kishin Shinoyama」っていう本を出版しています。

Painter's House: Balthus at the Grand Chalet
- 作者: Gero Von Boehm,Kishin Shinoyama
- 出版社/メーカー: Te Neues Pub Group
- 発売日: 2000/11/01
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