「ルーム」

ルーム

 レニー・アブラハムソン監督が、「ルーム」の前に撮った「フランク」は、観ようかどうか迷いつつ、結局、見逃してしまった。マイケル・ファスベンダーがずっとかぶりものをしている、イタそうなミュージシャンを演じていた。
 予告編を見ただけでは、ホントにマイケル・ファスベンダーかどうかわからない訳。攻撃的な設定ですよね。ハマったらでかいけど、はずしたら寒さもひとしおじゃないですか。なわけで、ためらった訳。
 でも、この「ルーム」も、主演のブリー・ラーソンが、アカデミー主演女優賞を獲得したからよいようなものの、変態野郎に拉致監禁された女の子が、子供を産んでそのまま育ててる、なんて、現実にありうるかありえないか、ギリギリの設定じゃないですか。まず、堕ろさせねえか?っつうことがあるし、産んでから捨てねえか?っつうこともある。
 しかし、そういう「常識的」な判断が働くものなら、そもそも、そんな拉致監禁がありえないんだし、だから、そもそも、「常識的」に考えれば、そんな拉致監禁事件そのものが起こらないはずなんだけれど、現実に起こっているのを、私たちは知ってる訳だから、遡って、奇想天外みたいなこんなフィクションが妙にリアリティーを帯びてくる。
 とはいっても、そのリアリティーを保ったまま、ストーリーを展開していくのは、相当な力業なはず。少しでも予定調和的になったら、「ハイハイ」ってなるでしょ。設定だけセンセーショナルで、展開は2時間ドラマみたいな。そういうの、日本映画では往々にしてある、なんなら、ドキュメンタリーですら、予定調和的な結末を用意してくれてる映画監督もいませんか?、誰とは言わねど。
 この映画は、そこがすごかったわ。拉致監禁のサバイバルと、そこから逃げ出すアドベンチャーは、いわば「フリ」にすぎない。だって、そこまでなら、「ランボー」と変わらないわけじゃないですか。拉致監禁されている状況が、どんなにありえなさそうでも現実であるなら、そこから解放された状況も、等価の現実でなければならない。
 突然、拉致されて、理不尽に何年も監禁される、その状況を現実だと想像してみることは、その虚構を、現実にどう接続するかだし、それは、言い換えれば、どうやって虚構性を獲得するかでもある。ある虚構が現実に刺さっていないとすれば、その虚構は現実に並列的な退屈なホラ話にすぎないんだし。
 この映画は、解放された後の現実にも、娘が失踪した親夫婦の現実にも、想像力の探針を深く潜らせる。マスコミ、ご近所、となってくると、最初、ありえるか、ありえないか、ギリギリを攻めていたこの虚構が、観客の現実もしっかり呑み込んでいる。
 「フランク」も、やっぱり観るべきだったのかなと後悔させる。