「ひそひそ星」

knockeye2016-05-28

 園子温監督の最新作「ひそひそ星」は、すばらしかった。
 一説によると、映画評はこういう書き方をしてはいけないのだそうだ。「良い」だの「悪い」だの言葉を使わずに「良さ」や「悪さ」を伝えなければならない。
 なので、「・・・はすばらしかった」の言い訳をしなければならないだろう。
 こないだ観たスペインの映画「マジカル・ガール」のカルロス・ベルムト監督が来日したとき、「園子温監督に見てほしい」と、今はそんな存在である園子温監督だが、個人的には好きなところと、受け付けないところがハッキリしている作家で、その辺は困ったものだが、この「ひそひそ星」は、「良い」だろうことは、たぶん観る前から予想がついた。そして、思った以上に良かったのだが、「・・・はすばらしかった」の意味はそれではない。
 初めて観た園子温作品は「ヒミズ」で、あれも良かった。染谷将太二階堂ふみがスターダムに駆け上がるきっかけになった。原作は古谷実のマンガだが、映画製作の途中に、東日本大震災が起こり、園子温監督は、急遽シナリオを書きかえた。おそらくは、それですごく良くなった。
 そういうわけで、個人的に園子温作品は、東日本大震災福島第二原発の事故と結びつくことになってしまった。
 その次に観たのは、「希望の国」だったが、これは良くなかった。福島第二原発を 扱っているのだが、たしか、実際に見聞した、福島のエピソードをサンプリングしたのだったと記憶しているが、それを虚構の家族に当てはめてしまったことで、「事実」がウソっぽくなった。癌で死を覚悟していた夏八木勲の芝居さえうまく生かせなかったように思う。畳の部屋に、杭が立つシーンがあるが、生煮えの表現だとおもった。事実を集めたからといってよくなるとはかぎらない。
 私が園子温作品に時々感じる、ざらっとした感じは、たぶん、抽出しの多さが災いするのだろう、対象に直に向き合わずに、自分のレパートリーに引き寄せてしまうのだろう、と推測している。
 ただ、ああした大災害があった時に、表現者として行動する、その失敗のしかたは、悪くないだけでなく、実は、必要でさえあるかもしれない。その負けっぷりの良さが次の勝ちにつながる。
 今、「希望の国」について書いたことは、実は、「ひそひそ星」について書こうとすることなのかもしれない。「希望の国」でまずいと思ったことが「ひそひそ星」では、すべて逆転しているからだ。
 「ひそひそ星」の着想は、園子温監督の20代の頃にすでに得られていたそうだが、今回は、それが、震災後の現実に出会っている。その出会い方は、震災後の現実を、自前の映画言語に引き寄せた「希望の国」の真逆である。
 また、「希望の国」では、福島の被災の現実を役者に演じさせたわけだが、「ひそひそ星」では、架空の物語を福島の人が演じている。話し声がひそひそ声に統一されていることが、演技力の問題をクリアしている。
 それにそもそも、この映画のロケーションが福島であることは、震災から5年の今だからこそ確かだけれど、この映画のどこにも、震災も原発も出てこない。しかし、あの「希望の国」を撮った園子温監督だからこそためらわずに踏み込めた一歩があると思う。声を嗄らして真実を叫んでも、届かない地点から、結局、虚構が始まるはずだからである。