『万引き家族』ネタバレ、観る前に読まないこと

 何年か前、村上龍が、人間の欲望から、セックスしたいとか、美味いもの食いたいとか、いいクルマ乗りたいとか、そういうのの要らないものを削っていくと、最後に残るのは家族なんじゃないかっていうようなことを言ってたことがあって、その時はピンとこなかったんだけど、今頃になって、たしかにそうだったかもなと思う。『万引き家族』に登場する人たちは誰も家族という幻想に裏切られた人たちなのである。
 是枝裕和監督の作品は、全部じゃないけど、特に最近は、ほとんど観ているので、カンヌでパルム・ドールを受賞しなくても観たと思うけど、とにかくも受賞はめでたい。
 それに、安藤サクラは、是枝裕和監督の映画は初めてというのがちょっと意外な感じがするくらい、その化学反応は、期待を軽く上回る。カンヌでは、むしろ常連だと言える是枝裕和監督の今回の映画が今までの映画と比べて、何が+αだったのかと言えば、それはもう安藤サクラの存在だろうと思う。
 是枝裕和監督の映画は、 『海街ダイアリー』の鎌倉の家、『海よりもまだ深く』の団地、『そして父になる』の父の家と主人公のマンション、などなど、家自体が、たんにロケーションであるだけでなく、役者であるかのような佇まいをしているのが印象深いが、『万引き家族』の住んでいる家も、わざわざこの映画のために建てたのでないかぎり、バブルの頃、地上げしそこなって残った、あんなビルの谷間の一軒家が東京に現実にあるわけだから、あの一軒家は東京の現実を写していると言える。
 家族が見えない花火の音に耳をすます俯瞰のシーンではそれが特に印象深い。バブルの前には、きっと、あたりはみんな一軒家で、花火の夜(川開きという言葉はもはや意味をなさないだろうが)には、夕涼みに出る路地があったはずだった。
 家が資産としての価値しかないかぎり、家族は概念として残っている幻想にすぎない。あの家で家族として暮らしている人たちが全員、家族の欠落感をいやせないでいるのは、それぞれの背景から明らかだけれど、しかし、その欠落感に観客が共感を持てないなら、この家族はたんに変な家族だが、それはどうだろうか?。
 喪失した家族への飢餓をもっとも強く抱いているのは、リリー・フランキーの演じている父親だ。建設中のマンションや、どこかの父子がサッカーボールを蹴りあっているのを見ては、妄想をたくましくする。松岡茉優の演じる娘に「何でつながってるんだろうね?」と訊かれるけれど、結局、この父親には現実的な父性がない。一度の転落から這い上がれないのだ。
 少年と一緒に釣りをして、雪だるまを作って、一つの布団で背中合わせに寝る、その床で交わす父子の会話はに非難の色はない。父性は本来、家族を切断する。少年ははじめから男に父性を感じていなかった。「俺、今日からおじさんに戻るわ」というセリフに寂しさはあるけれど、少年は責めない。それまでは父子であったことを否定しない。しかし、今更言うこともない。
 バス停でバスを待つ間に、少年は「わざと捕まった」と告白するが、それが決別の言葉であるのは、父子ともに判っている。少年はずっと振り返らない。姿が見えなくなってからふりかえるのだ。この父子の、本人同士にしかわからないだろう、ひそやかな別れのシーンは、是枝裕和監督の真骨頂だろうとひとり勝手に納得している。
 自分を虐待していた、実の両親の元に帰る少女は、傷ましく見える。だが、いったん手に入れて、心にしまった家族の幻想が少女を強くしていることがラストにわかる。家族の幻想さえあれば生き延びていけるのかもしれない。
 だとしたら、この幻想の家族をどう思えばいいのか?。少年も、幻想の妹のために強くなれたのだとしたら。
 しかし、是枝裕和監督は、現実を問いとして、幻想の前に立ててみせる。
 カンヌの審査員だったケイト・ブランシェットが「今後、あの泣き方をしたとしたら、彼女の真似をしたと思ってください」と言ったシーンの撮影について、安藤サクラ
「あのシーンは、監督がホワイトボードに書いたセリフを、刑事役の池脇千鶴さんにだけ見せて、そのセリフに私が返すという撮り方でした。本当は泣きたくなかったんですけど、彼女が抱える“母性をどう受け入れるか”という葛藤を思いっきり突かれて、動揺してあんなふうになってしまいました」
と語っている。家族の幻想と現実がもっともくっきりと対立したシーンだった。