「大人はすべて敵」

 日経スタイルに坂本龍一のインタビュー記事があった。
 そのなかに、「今の僕があるのは大島監督のおかげです。葬儀で弔辞を読んだのも、親族やマネジャーなどの『身内』を除けば、大島監督だけ。」
と言い、そして
「当時、大人はすべて敵だと思っていましたが、大島監督と評論家の吉本隆明さんだけは例外。この2人は僕が憧れる『格好いい大人』でした」
と言っている。ここで「当時」と言っているのは坂本龍一がまだ高校生だった60年代のこと。
 この「大人はすべて敵」という彼の精神的な態度については、いつだったか、 お正月にだけ流されるサッポロビールのCMの、妻夫木聡がいろんな大人にインタビューする「大人エレベーター」というのに坂本龍一が出ていて、若い頃のエピソードで、細野晴臣に「とにかくいったん‘カタナ’を置いてくれ」と言われたことがあると告白していた。とにかく尖っていたそうなのである。

 坂本龍一が、全共闘世代とひとくくりに語られるのをよしとするかどうか分からないが、「大人はすべて敵」という感覚が、全共闘世代の多くに共有されていた共通認識であったとしても不思議はない。しかし、「大人はすべて敵」が、全共闘世代だけの特殊な態度だったかといえば、どうなんだろうか?。自分のことを思い出しても、その後の世代でも、しばらくは更新されることなく常識として受け継がれてきていたと思える。
 たとえば尾崎豊の世代にとって「大人はすべて敵」という全共闘世代の感覚に共感できないかというと、少なくとも反発は感じないと思うのだ。
 しかし、今の若い世代が「大人はすべて敵」と思っているかと言えば、とてもそうは思えない。もしそうだとしたら、その感覚はいつなくなったかだが、いずれにせよ、それが全共闘世代の後の世代まで残っていたとしても、全共闘世代の熱量そのままであり続けたとはやはり言えないだろう。
 全共闘世代は、大学を封鎖し、教授室に乱入し、敵対する学生を殴り殺していた。それほどまでの怒りについてまで、後の世代に理解できるかといえば、それは難しいのではないか。しかし、今の彼らがどう考えているか知らないが、後年になって、指名手配されていた当時の学生運動家が逮捕されたのをニュースで知ったとき、かつての仲間達、今はけっこう高い社会的地位にいる人たちが逃亡の手助けをしていたと知って意外に思ったことがあった。「大人はすべて敵」は、その結末がどうあろうと、彼ら自身にとっては、実際に質量のある観念だったと思ったことだった。
 よく目にする「若者の右傾化」については、私はまったく信じていない。まず、そもそも、右、左という分類自体に意味があると思っていない。安田浩一の『右翼の戦後史』を読んで確信したことは、近代以降のさまざまな新しい思想や運動に対する反知性的反発として右翼があり、そして、彼らが自分たちの反発するすべてを一緒くたに「左翼」と呼んだにすぎなかった。右、左、などという、ありもしないそんな分類を「左翼」と呼ばれた側も受け入れたのであれば、彼ら自身もまた「反知性的」だったというまでである。なので、「世の中が右傾化している」などと言ってみたところで、それで何を言っていることにもならない。
 ただ、「大人はすべて敵」と思っている若者は減ったとは言えるのではないかと、坂本龍一のインタビュー記事を読んでいて思った。生態学的な世代間闘争のような、生物的な現象を指して「大人はすべて敵」と言っているわけではないとしたら、「大人はすべて敵」と思っていた世代がとっくに大人になった今、60年代の若者たちが「敵」だと思っていた「大人」と言われた彼らはどこに行ったのか?。この敵の正体は、「右傾化」などという言葉ではあらわにすることができないだけでなく、むしろ、その正体を隠蔽することにしかならないと私には思える。ましてや、「安倍応援団」などという言葉は、それ自体の「反知性」で、それを発する人の信頼を失わせるだけだろう。
 もう一点は、「大人はすべて敵」と感じていた全共闘世代は、実は特権的な存在だったいうことがある。東京だけ、といえば言い過ぎなのかもしれないが、少なくとも、彼らの生息するのは大都市でなければならなかったはずだし、当時の進学率を考えると、大学に進学する若者は、少数派という言葉では足りず、やはり、特権的というしかない存在だったのである。だからこそ「選良」という意識が彼らをそうした運動に駆り立てたとも言える。
 その後、大学は急速に大衆化していき、「思想」と「運動」に「合コン」と「ミスコン」がとってかわる。全共闘世代は、その転換期にいたというべきだろう。もし、彼らが真に「選良」だったとしたら、社会の変革を担うのは当然なのだし、その本質が「大人はすべて敵」では幼稚すぎた。その幼稚さが、やがて、「合コン」と「ミスコン」の大学生活に変容していくのは自然な流れだっただろう。「選良」であることを辞めた大学生にとって「大人はすべて敵」は、自堕落な学生生活を口実として支えるポーズにすぎなかった。
 そういう状況に対する反発として、小林よしのり西部邁の言説があるわけで、それを「右傾化」と呼称して放り出してしまうことは、今、社会の中核を担っている全共闘世代にそれをいう権利があるかということに疑問を呈することはできるだろう。
 小熊英二の『民主と愛国』で知ったが、彼らは丸山眞男の教授室も占拠した。見当違いもはなはだしいと思うが、吉本隆明は、そういう彼らを擁護したのだった。
 「大人はすべて敵」という感覚は、実際には、吉本隆明の世代こそ共有していたのではないか。全共闘世代のように、特権的な一部の層に共有されたというのではなく、ほんとうに世代全体を貫いて「大人はすべて敵」と口にする権利があったのは、戦争に青春のすべてを奪われた、吉本隆明の世代ではなかったかと思う。
 吉本隆明は、小津安二郎の、いわゆる紀子三部作の第1作、1949年に封切られた『晩春』の紀子とほぼ同じ歳である。ひとつ違うか違わないか。『晩春』の紀子の目に宿る憎しみ、怨嗟の表情は、その後の『麦秋』、『東京物語』の紀子には見られない。60年安保が広い共感を得られたのは、学生だけではなく、その上の世代の共感を得られたからこそのはずだった。
 「大人はすべて敵」は、そうした世代にとって、実際に手応えのある観念だったと思う。池に投げ込む石のように、社会にその観念を投げ込めば、実際に波紋が広がる、そういう観念だった。だから、それは実際に社会を巻き込む運動になった。だが、そこには現在の実感があっただけで、未来を描く理想はなかった。今そこにあるものは確かだったが、今はない未来にあるべきものは何も見えていなかった。
 全共闘世代の大学生は「選良」となるべくそこにいたのだし、「選良」にならなければならない存在だったが、そうした選良意識を拒んで、むしろ大衆と化すことを望んだ。なぜなら、そうした選良の権化の惹き起こした醜悪な戦争の記憶がまだ鮮やかである時代に、全共闘世代の若者が選良となることを皮膚感覚で拒否したことはあると思う。吉本隆明は「大衆の原像」ということを言ったのだし、高橋和巳も下降志向の人だった。
 そうして、彼らが「選良」を拒んだことで、現実の政治は誰が担うことになったか。それが族議員と保身官僚というなら話は簡単だが、そういうことよりも、学生運動の挫折は、政治の現場と大衆を結びつけるシステムを消滅させた。
 日本会議創価学会のような特殊な宗教団体が自分たちの意見を政治に反映できるのに、その他の一般的な国民が自分の意見を政治に反映できるチャンネルがないというのは全くいびつな状況だと思う。やはり韓国やアメリカのように二大政党が対立しあっているのが民主選挙にとって健全な状態だと思う。
 その意味では、沖縄の米軍基地移転を反故にした鳩山由紀夫は、日本の民主主義を壊したと言えるだろう。国民が圧倒的に支持した政策を実現できないだけでなく、実現する努力すらしないとなれば、民主選挙が形骸化するのは当然だった。この瓦礫から民主主義がどうやって立ち直るのか、途方もない気がする。