わがこころのよくて、ころさぬにはあらず

 51歳のひきこもり男が、登戸で小学生たちを殺しまくった事件の翌日に、76歳の元事務次官が44歳のひきこもりの息子を殺した事件について、「わかる、わかる」みたいな反応を示す人がちらほらいるのだが、しかし、51歳のひきこもり男と44歳のひきこもり男は別人だから、「親の責任として」みたいな話は違うんじゃないかと思う。
 むしろ、76歳の元事務次官は、51歳のひきこもり男のほうに似ている。ふたりとも、人と向き合うことができなかった人だと思う。
 51歳のひきこもり男については「拡大自殺」ということが言われたけれど、76歳の元事務次官についても同じことが言えないだろうか。51歳のひきこもり男にとって、登戸の小学生たちが「そうありえたかもしれない自己」だったとすれば、76歳の元事務次官にとっては、44歳のひきこもり息子は「消し去りたい自己」でしかなかったのではないか。
 「子離れしていなかった」とかそういうことではなく、人として誰かに、誰でもいいのだが、向き合ったことがなかったのではないかという気がした。他人にはかぎりなくタテマエで接する、そして、自分をさらけ出す友達はひとりもいない。そういう人間は日本人には少なくないと思う。ましてや、元官僚、だからといっては、先入観で語りすぎるかもしれないが、「面従腹背」を公言してはばからない元厚生事務次官もいたことだし、はたして、そういう人が家族に向ける顔はどんなだったのだろうと思ってみると、うすら寒い気分になる。
 これはもちろん、ただの推量、というか、妄念にすぎないが、しかし、現に、わが子を殺すという一歩を踏み出す76歳の気持ちはどんなだったろうかと想像してみてしまう。
 そうすると、不思議なことに、ヒロミとか橋下徹が言ってるみたいな「親としてわかる」って話ではなくて、51歳のひきこもり男に対して、太田光が言ったことと、松本人志が言ったことが、こもごも想起される。
 44歳のひきこもり息子は、働きもせず親の金でゲーム三昧、母親に対して暴力をふるっていたらしいと聞くと、確かに、松本人志のいった「不良品」という言葉がおもいうかんでしまうし、なにより、76歳の元事務次官の頭にその言葉が浮かばなかったかどうかと考えてしまう。
 炎上した松本人志の「不良品」発言だったが、51歳の方ではなく、44歳の方に向けて言っていたら、あるいは炎上しなかったかもしれない。ただ、44歳の方は被害者なんだが、実際、ネット上では事実上「不良品」扱いされていると見えるがどうだろうか。
 太田光の発言の方は、火曜ジャンクで、空気階段にいじられていた。空気階段太田光の大ファンらしくて、本も全部読んでいるそうだが、過去の本から「特に、この一節が好きで」と、こないだの発言そのままの文章を読み上げてた。うまいなと思った。太田光は「ありねたっちゃありねたなんだけど、世間が褒めてるから泳がしてんだけどさ」、田中さんは「何回も聴いたよ」と。
 歎異抄によると親鸞聖人は
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人(いちにん)にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。
 わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」
唯円に話したそうだ。
 人の心だけでなく、自分の心も推し量るのはむずかしい。実際に自分がその立場に立ってみたら、どうなるかわからない気がする。
 そういえば、津久井やまゆり園の追悼式が七月に行われるという記事が神奈川新聞にあった。それによると、今年も、被害者の遺影も名前も隠した式になるそうだ。黒岩県知事は名前も遺影も掲げるべきだという意見だそうだが、遺族の意見が一致しないらしい。
 これについては、この事件の犯人の
障碍者が人間ならば、彼らが罪を犯した時同様に裁かれるはず。
知的障害を理由に裁かれないという事実は、彼らが人間ではないことを証明している。
氏名が公表されず遺影もない追悼式、彼らが人間として扱われていない証拠と考えております。」
という発言がネットで話題になってはいる。挑戦的な発言ではある。
 あのやまゆり園の事件直後に、ロシアのプーチン大統領が、「無防備な障害者を狙って実行された犯罪の残忍さに動揺している」と、弔電を送り、遺族に哀悼の意を示したことが、奇妙に印象に残っている。
 ロシアというと、メドベージェワに脅迫文を送りつけたりするのがいたりする日本人の一部にとっては、なにか非道で冷酷なような印象があるらしいが、しかし、やまゆり園のような事件があると、政治家として言うべきことをわきまえている。これは、政治的な立場は違っていても、結局、西洋社会が、キリスト教文明に基盤を置いている共同体である、その実例を見せつけられる気がした。そして、奇妙な疎外感を感じた。
 これに対して、日本の政治家がどのような発言をしたか記憶にないが、女性を「産む機械」と発言した大臣をさほど問題視しない国であるのは確かだ。
 戦時中は「兵士の命は一銭五厘」と言われた。はがき一枚でいくらでも補填が効くという意味だった。そのころから、今に至るまで、結局、私たちの社会は、人の命も自分の命も、あまり重いものと考えていない気がする。神風特攻隊なんて、あんなものを、いまだに美談めいて語る人がいる。そんなだから、負けたんだろって、私は言いたい。
 自分のも他人のも、命が大切だと思えない社会の弱さ、みたいなものをひしひしと感じさせる事件だったと思う。
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