今週はもちろん「アメリカン・スナイパー」のお話。
公開初日に観にいくつもりでいたのだけれど、TOHOシネマズのvitで予約しようとしたら、「え」という混雑、ここはあえて初日をはずして日曜日の朝イチで観た。それでも満席だったけど。
あの無音のエンドロール。芝山幹郎のレビューを読んだけれど、アメリカではあのエンドロールの間に席を立つ観客はいないというが、わかる気がする。あの静寂に何かがまだ鳴り響いていて席を立てない。音の残響というより、重い荷物を下ろした後、指がじんじんしている、あの感じに似ている。
映画を観ている間、これがクリント・イーストウッドの作品だということを忘れていたが、この映画ほど、クリント・イーストウッドが現場のたたきあげだと感じた映画はなかった。
世界中のいろんな町に映画館があって、その映画館に観客が映画を観にやってくる、その映画を作る現場を、クリント・イーストウッドは熟知しているということだ。
映画を作っているだけでなく、映画で考えてさえいると思った。
これほど圧倒的な映画を観た後で、右だ左だの議論しかできない連中の薄っぺらさにはあきれざるえない。
宮崎駿の「風立ちぬ」を思い浮かべてしまうのが不思議だけれど、宮崎駿の方がすこし年下だが、第二次大戦を少年として体験したふたりにとって、戦争は人間の現実なのであり、学者の議論のような空疎なものではないのだろう。
ここに人間の現実が描かれている。この映画が、能うかぎり自覚的に人間的であろうとした人の内面の記録であり、そうしたことが映画で描きうることを、私はいまさら驚きもするが、クリント・イーストウッドにとっては、西部劇の昔から、そうしたことを描くことが映画だという思いに疑いを抱いたこともないのだろうと、今回あらためて気がつかされたわけだった。
「日本よ、これが映画だ」というコピーで炎上した映画があったが、そのコピーはこういう映画にこそつけてほしかった。
「アメリカン・スナイパー」と場内の沈黙 : 芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 映画.com