地獄極楽への扉 源信

knockeye2017-08-12

 奈良国立博物館で開催されている、源信僧都1000年忌の展覧会に出かけた。
 源信僧都は、浄土真宗においても、龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、善導大師、道綽禅師、法然上人とならび、七高僧といわれる先達である。が、一般的には、中国でむしろ有名であるとも言われていて、そのせいかどうか、中国の人も多くいた。多くはないのかな?。でもいた。奈良観光のついでかもしれないが、全く興味がなければ入らないはずなので。
 私はなんとなく源信僧都という呼称に親しんできたが、この人に僧都という政治的な位を授けたのが藤原道長だったとは知らなかった。源氏物語源信僧都をモデルにした横川の僧都という人が出てくるのは聞いたことがある。そもそも光源氏のモデルが藤原道長と言われているだけでなく、藤原道長紫式部には肉体関係があっただろう、「逆に何でないの?」みたいなことを大野晋が書いていた。あの膨大な物語を書いた紙ですら、藤原道長の支援がなければ手に入れられなかったのではないかと、これは丸谷才一が書いていた。
 してみると、藤原道長は、『源氏物語』と『往生要集』の両方の成立と袖触れ合っていた。もっとも、源信その人は、僧都の職を一年で辞めてしまった。
「後の世を渡す橋ぞと思いしに世渡る僧となるぞ悲しき」
これは、源信僧都のお母さんが詠んだと言われている。
 息子がやんごとなきあたりで仏教の講義をするまで出世したら、普通の母親ならホクホクなはずだが、源信僧都の母親はこういう歌を詠んだとされている。
 『往生要集』は、その後の仏教徒の地獄のイメージを決定した。私たちが「地獄」という言葉で描くイメージは、ほぼこの『往生要集』にルーツを持つと考えていいらしい。
 地獄の思想のユニークな点は、死と罪を結びつけたことだ。たとえば、古事記の世界では、死は穢れだった。忌み遠ざけるべき疫病のようなものだった。死が罪と結びつくこと、つまり、「悪い子は地獄に行くよ」ってことが、宗教と自我を結びつけた。この点が、他の多くの違いにもかかわらず、浄土信仰とキリスト教を似せている点なのだろう。
 藤原道長は『往生要集』を愛読していたそうで、『往生要集』に書かれている臨終行儀に従って、阿弥陀仏の指から五色の糸を結んで臨終を迎えた。
 今回展示されている晩年の書物『一乗要決』には、仏の真の教えはひとつとする一乗教と、全ての衆生が仏性を持つとする悉有仏性という考え方の上に、極楽往生があると説いているそうだ。
 源信僧都の『往生要集』は、極楽往生の手引書だったが、まだ九品の往生に分けられている。源信僧都は自らのためには比丘の多い弥陀来迎図を描かせ、自分には、下品の往生がふさわしいと語っていたそうだ。
 法然上人は、一枚起請文に
「もろこし我朝にもろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にあらず。又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて、申す外には別の仔細そうらわず。」
と書き、念仏を称名念仏に、一切経浄土三部経に集約した。それが親鸞聖人に至って、称名報恩、信心正因となり、往生の本質は信心にあるという信仰になる。
 これはしかし、仏教が一つの教えであり、全ての衆生が救われるというなら、辿り着くべき当然の帰結であったように思える。
 死に貴賎貧富の差がないとしたら、それは死が罪と紐付いているからだ。その同じ理由で、罪は死と自我を紐付ける。『往生要集』の序文に
「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや。この故に、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。 これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。」とある。
 「予がごとき頑魯の者」は、謙遜や自嘲ではなく、罪悪観であり、自意識なのである。自我を悪であるとするこの罪悪観は、源信法然親鸞の三人に一貫している。むしろ、罪悪観の発見が、浄土信仰の発見であったと言っていいかもしれない。罪と死と自我と信仰のこの固い絆の新発見は、おそらく当時とてつもなく魅力的で、多くの人を惹きつけただろう。そしておそらく今でさえ、人が信仰に赴くとすれば、それはこの魔法陣に惹きつけられてのはずである。
 『源氏物語』もそうだが、近代的な自我がこのころの日本に存在していたのを面白く思う。『源氏物語』の翻訳者で知られるエドワード・サイデンスティッカーは、若いころ『源氏物語』を一読して紫式部を天才だと思い、晩年には浄土真宗門徒として死んだ。「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なり。」という親鸞聖人の言葉が歎異抄にある。宗教家の言葉としてこれほどびっくりさせられる言葉もないし、これほど真摯な言葉もなかなかないと思っている。