18世紀の古伊万里

knockeye2017-09-17

 日本民藝館ウィンザーチェアを観た後、戸栗美術館で「18世紀の古伊万里―逸品再発見ll―展」を観た。戸栗美術館というのが渋谷にあるとは知っていたけど、訪ねたのは初めて。渋谷の雑踏がウソみたいに静かなあたりだった。
 日本民藝館ウィンザーチェアもそうだけれど、最近、個人的には、「アートってこうでしょ?」みたいな、作家の半笑いが目に浮かぶ「いかにもアート」な展覧会はあまり観にいかない。
 たとえば、今、横浜トリエンナーレが開催中だけれど、このまえのトリエンナーレに出展されていた「コート」っていう作品は、鏡張りの仕切りのこちら側がテニスのコート、反対側が裁判所、つまり英語で「コート」っていう、吉本の若手が手見せで使ったらぶん殴られかねないお寒いダジャレなんだが、それを涼しい顔で出展できるセンスがつまり現代アートなわけである。
 マルセル・デュシャンは「泉」を出展応募した展覧会の協会理事だった。まじめくさった主流派理事をおちょくってやろうと他のふたりの非主流派理事とともに便器に偽名のサインをして応募したのだそうだ。
 ところが、まじめくさった人間というのはどこまでも救いがたいもので、いまではそれが現代アートの金字塔と崇め奉られている。
 ジョゼフ・コスースって人の作品「1つおよび3つの椅子」は現代アートの世界では有名なんだそうだが、椅子と椅子の写真と辞書の「椅子」のページが並べてある。この作者が三十年後にこう語っている。
「芸術とは高価な装飾なのか、それとも哲学など種々の知的ジャンルに比肩しうる真摯な活動たりうるのか、それを問うたのです。その解答は三十年たったいま、明らかだろうと思います」
 どう明らかなのか浅学非才にしてわからないが、椅子、椅子の写真、椅子の説明文を並べたのが「哲学など種々の知的ジャンルに比肩しうる真摯な活動」だとどうして思い込んでるのか、まずそこから説明してもらわないといけないみたい。
 しかしまあ、現代アート以前のアート、たとえば、ゴッホにしてもルノワールにしてもフェルメールにしてもボッティチェリにしてもギリシア彫刻にしても、ひっくるめて「高価な装飾」としか思えないらしい、その「真摯な知的活動」にはついていけない。百年前にマルセル・デュシャンがからかってやろうとしたのは、どちらかというとこういう「真摯な知的」連中だったように思う。
 今では、現代アートの作品は「高価な装飾」をしのぐほど高価になっている。知的活動だけでなく経済活動も抜け目がないようだ。むかしから、芸術といわれるこの世界には、作品を作る人のまわりに二種類の人がいた。ひとつは、作品を欲しい人に売ろうとする商人、もうひとかたは、自分で売り買いしない代わりに、ほめたりけなしたりして価値をあやつろうとする評論家で、便器が何億にもなる錬金術に味を占めたら、そりゃやめられないのでしょう。
 というわけで、「真摯で知的」連中が鼻で笑うらしい「高価な装飾」の最たるもの古伊万里の展覧会などに私は出かけたわけ。
 こうした器がアートかクラフトかはたぶん意見が分かれるのだろう。アートだと主張したい人はそのほうがおいしいのかもしれないが、いずれにせよほとんど無名の陶工たちが作ったこれらの「高価な装飾」の背景には、それを飾っていた人たちの生活があった。
 ウィンザーチェアもそうだし、所さんの持ってるニューヨーク製のパイプレンチも、ゴールドラッシュの鉱夫がはいていたジーンズも、そこには「真摯な知的活動」はないかもしれないが、その人たちの生活があった。どちらかといえばそうしたものにふれたいとおもう。
 写真は柿右衛門様式の色絵の獅子。この角度だとちょっとわかりにくいが実物はもっと「困り顔」をしている。

 この展覧会の図録ってのはなくて、館蔵品の図録を探してみたが、≪横綱土俵入り文 色絵 皿≫が載ってなかったので、伊万里唐草の蔵品集を買った。蛸唐草の器も多く展示されていた。中島誠之助で有名になった蛸唐草だが、あれだけの数を間近に観たのは初めてだった。





 鍋島では「沙綾型」文の皿ってのがあった。グラビアアイドルの沙綾のあの名前はキラキラネームかと思ってたら、由緒正しい名前だったんですね。