サッドヴァケイション

10月は朝が長い。
わたしのような夜更かし鳥の、午後の朝餐になっても、なんとなくまだ朝の感じが残っている。コンビニで済ますつもりで戸外に出たが、すごくよい天気だったので、そのまま自転車で少し走って、「寿司、PIZZA」と看板に併記してある店で、オムライスを食った。
カウンターが窓に向いている。秋晴れの窓はそれだけで見る価値がある。日曜のこのあたりはとても静かだ。
残念なことにそれからまた少し眠ってしまったのだけれど、夕方に黄金町のシネマベティに『サッドヴァケイション』を観にいった。横浜から京急で下りに乗るのは初めてだ。川沿いに少し歩いて高架の方を振り向くと、駅を出た電車の横腹がちょうど夕日を照り返した。川面にも夕日が映えていた。
サッドヴァケイション』は、まず出だしのテンポのよさに引き込まれた。豊浦功補が笑って振り向く。背中に隠していた短刀にそれまでの緊張が収斂すると同時に、それが解放される。朝の町を駆け抜ける浅野忠信の自転車に乗って、そこから一気に物語が流れ出す。
『Helpless』、『ユリイカ』につづく青山真治監督の北九州もの第三作であるそうだ。わたくし、実は北九州の産なので、光石研斉藤陽一郎の「北九州の感じ」が可笑しかった。ひとりで吹きだしていた。
人間関係の濃密さと希薄さが、点描派の絵のようにリズミカルだ。石田えりの、自己増殖していくような母性の不気味さには心底ぞっとした。寺山修二の『草迷宮』という映画をご存知だろうか。あのラストちかくの悪夢のような母性像に匹敵する怖さだと思う。中村嘉葎雄の指も震えようというものである。
石田えりの頬を打って中村嘉葎雄が建物に戻っていく。それをガラス越しに見つめている喪服の男たちの姿。単に生と死のコントラストというより、増殖する母性に対する死の敗北を思わせる。しかし、母性が死を超越するとしたら、母性は個性を持ちえないわけである。千代子という名前は多分偶然ではないのだろう。