「ぐるりのこと。」 ネタバレ編

knockeye2008-08-11

今年の日本映画は面白い。
「接吻」「アフタースクール」そして「ぐるりのこと。」
「ぐるりのこと。」のパンフレットをうっかり買い忘れてしまった。
公式サイトの監督インタビューを読むと、
法廷画家の夫とうつになる妻の構想は『ハッシュ!』の撮影中からありましたが、映画の公開後、張り詰めた糸が切れるように自分自身がうつになりました。考えることと言えば死ぬことばかりというような状態です(笑)。ちょうどうつの妻の話を考えていたので、これは映画の神様が勉強しろと言っていると思い、自分が何を感じるか心に留めておこうとジッと踏ん張りました。その頃、イラク戦争で日本人が人質になる事件がありました。救出された方たちが帰国された時、空港の野次馬の中に“自業自得”と書かれたプラカードを持ち笑っている若い女の姿を見て、日本人はいつからこうなったんだろうとショックを受けたんです。」
リリーフランキーは、出演の依頼について
「橋口監督とは仕事以外でもお付き合いがあったので、ノリとしては友だちのバンドのフライヤー制作を頼まれた気分で(笑)、断る理由がないなあっていう感じでしたね。まあ、橋口さんはとても繊細にもの作りをする方なので、こんな俺でもいいというちゃんとした理由があるんだろうなとは思いましたけど」
と答えている。
演出の繊細さということについては、たとえば、亡くなった娘さんのことを言うとき、「死ぬ」という言葉を避けていたように思う。「ダメにした」とか「ああなった」とかいう風に。
そして先日も書いたけれど、娘さんはスケッチ一枚しか登場しない。
「死」という言葉も使わず、姿も見せないことで、不在感(存在感と言うべきだと思います?)がだんだんと張りつめていく。
出版社に勤めている妻が、ある作家のサイン会のイベントで、さしせまる感情に耐え切れず、泣く場所を探して本屋の中を走るシーンがある。天上ぎりぎりまで本がぎっしりと詰まった本棚の迷路。言葉、言葉、言葉の藪の中で、行き惑う孤独。あのシーンがなければ、台風の夜の妻の言葉は、ずっと薄っぺらになっていたはずだ。
飽くまでも言葉で夫に迫ろうとする妻。言葉ではないメッセージを伝えようとする夫。会話はたどたどしくなる。
クモを殺すあのシーンは、実際には言葉を殺しているのだ。クモを殺すことは、譬諭にすぎないからだ。
娘さんの素描が一枚、伊藤若冲を模したかの細密な花の絵が無数枚、そして、昔、家族を捨てて家を出た、妻の老父の肖像。
この老父も絵姿でしか登場しない。重要な登場人物ふたりが絵でしかないことが演出意図でないはずはない。

そして、先日に書いたことと重複するけれど、この映画は、ひとりの子供の不在で始まり、別のひとりの子の不在で終る。丹念につづられてきた夫婦の十年、そこに長く緊張を強いてきた不在の重さが、あのシーンで、一瞬に客観化される。主人公夫婦と観客が共有してきた見えない悲しみにあの瞬間に形が与えられる。
悲しみが形を得ることは、その悲しみが癒されることである。誰の悲しみだろうか?それはもはや主人公夫婦のものではなく、映画の世界そのものが通奏低音として持ち続けてきた悲しみだと私は言いたい。