- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/05/15
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小説の言葉、フィクションが、現実に届かなくなってきている危機感を、このふたつの本は共有していたはずだろう。フィクションの世界の内側で戯れることもできるが、もし、フィクションが現実を刺すことができないとすれば、そのフィクションは、現実を見失なった時点ですでに、フィクションとすらいえない。その、言葉の側の絶望と焦りを、このふたつの本は強く感じさせる。
テアトル新宿で、橋口亮輔監督の「恋人たち」を観た。かすかに接点のある三人の人物の、全く無関係な三つ(もしかしたら四つ)の恋を並行して描いている。
橋口亮輔監督といえば、「ぐるりのこと。」を思い出さざるえない。リリー・フランキーを映画の世界に引っぱり出した。この映画の公式サイトにも、“「ぐるりのこと。」以来7年ぶりの”とあるが、ちょっとクスっと来ちゃうのは、実は、この間に「ゼンタイ」という全身タイツのヘンな映画がはさまっている。サイトの監督インタビューによると、あれはでも、その前年の「サンライズ・サンセット」ともに、ワークショップとして作られたものだそうだ。
今回のこの映画も、実は、そのワークショップの三部作として構想されたものだったそうだが、しっくり来ずに、「きちんと自分に引き寄せた物語を100%オリジナルで作らないと」いけなくなったのだそうだ。
あの「ゼンタイ」は、渋谷でレイトショーだけだったから、観はしなかったけど、「ぐるりのこと。」みたいな名作の後で、全身タイツって、この人スゴイなと思った。「ぐるりのこと。」の時も、高遠菜穂子さんが帰国するときのバッシングをテレビで見てショックを受けたと書いていた。「ぐるりのこと。」と高遠菜穂子さんは何にも関係ないように見えるが、実は、そうではない。結局、フィクションが現実に向けて突きつける切っ先の角度に正確でありたいと思えば、一見、まるでかかわりないように見えるのではないか。
つまり、今回の映画でいえば、アツシ(無差別殺人事件で奥さんを亡くしている)の物語だけを語れば、フィクションの世界で遊べるはずだった。しかし、橋口亮輔監督は、それで終わらない。アツシが訴訟を相談する、一般的に言えば、小気味よいほどに「ゲスの極み」な弁護士の、まったくどうしようもない恋愛も、同時並行して描く。そして、それとは、まったく関係のない、普通の主婦の恋愛(ある意味これが一番シュールだが)も同時並行して描く。これが絶妙。
橋口亮輔監督みずから「書き上げたら、初めて本物のセリフが書けたような気がして、これまでで一番いい脚本になったと思います」と語るだけのことはあると思う。
アツシの部屋を訪ねた職場の先輩が、半分閉じた襖の向こうから立ったまま、奥さんの位牌に回向する、その距離感の繊細さは、「ぐるりのこと。」以来、橋口亮輔監督を信頼させる資質だろう。その繊細さと鋭さで、この脚本は書かれた。
今日はまた、朝晩より昼間の方が冷え込む、冬を思わせる寒さだった。先日もふと、今年の映画をふりかえって、やっぱり「海街diary」かなぁと思っていたのだけれど、ここに来て、その判断を迷わせる、嬉しいサプライズが現れた。
こう考えると、日本の映画は、フィクションの形式として、小説に替わるべきものであるかもしれない。少なくとも、映画の方が、現実に迫るフィクションの力を持ちうるのではないかと思わせる、この映画だった。