『エッシャー通りの赤いポスト』

 去年、ハリウッドデビューで話題になった園子温監督、ニコラス・ケイジ主演の映画『プリズナー・オブ・ゴーストランド』はひどかった。園子温監督はもう終わったのかと思った。しかし、水道橋博士YouTubeで語っていたところによると、あの脚本は園子温監督ではなかったそうだ。プロデューサーが脚本家も兼ねている。悪い予感しかしない。
 そういう背景を踏まえてか、踏まえてないのか、『エッシャー通りの赤いポスト』にも、なぞのスポンサー(というかパトロンというか)が現れる。渡辺哲が演じている。ただ、この映画と『プリズナー・オブ・ゴーストランド』のどちらが先に作られたのか?。今日の上映後に役者さんたちの舞台挨拶があった。それによると『エッシャー通りの赤いポスト』の撮影は2年前だという話だった。
 『エッシャー通りの赤いポスト』は、まったくの素人さん51人と園子温のワークショップで作られた映画で、最初は公開されるかどうかも決まってなかったそうだ。その映画がハリウッド映画よりはるかによいのだから、パトロネージュのあり方というか映画を巡るお金の流れが、どこかで目詰まりしているんだろう。ワークショップから生まれた名作といえば、橋口亮輔監督の『恋人たち』を思い出す。2015年のキネマ旬報ベストテンの一位になっている。あの映画も最初は新宿の映画館で単館しかもレイトショーだけで上映されていた。
 また、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』で旋風を巻き起こしている濱口竜介監督の5時間17分の映画『ハッピーアワー』もアマチュアとのワークショップで作られた映画だった。
 ただし、この『エッシャー通りの赤いポスト』最初の15分〜20分は我慢が必要かと思う。エンディングから振り返るとフリとわかるが、そこはワークショップらしく、まだプランが固まってないとも見える。 
 逆に言えば、それだけに後半の加速度的な離陸ぶりが引き立つとも言える。『地獄でなぜ悪い』の後半よりさらに混沌としている。エンディングから振り返ると、オープニングのカチンコの後、画面に不自然に溢れかえるエキストラの群れの意味がわかる。もう少し編集すれば見やすくなるのかどうか、私にはわからないが、見やすいものには見やすいなりの短所もある。前半部分で「大丈夫?」という感じの役者さんたちが後半で跳ねていく感じは感動的だ。
 園子温監督を根底で支えているのは映画の前に志した詩人の資質なんだと思う。映像と言葉が湧いてくる場所が同じなのだ。これは言葉で映像を、映像で言葉を補おうとする亜流たちと決定的に違う資質だ。『プリズナー・オブ・ゴーストランド』と見比べるとよくわかる。というと、どちらも園子温監督作品には違いないので、まずいことにはなるのだが。
 話が飛ぶ。とにかく『エッシャー通りの赤いポスト』は観るべき。この先はもう関係ない話かもしれない。園子温監督がアマチュアと作った映画といえば『ひそひそ星』というモノクロ映画がある。東日本大震災の被災者さんたちと作った映画だった。奥さんの神楽坂恵さんが主演している。大きな声で話すとびっくりして死んじゃう人が住んでる星という設定でアマチュアの人たちがみなひそひそセリフをいう。
 この演技の制限でテキストが際立った。これは『ドライブ・マイ・カー』で濱口竜介監督のやったことと同じだと思う。
 『ドライブ・マイ・カー』の時も書いたけど、小津安二郎監督も役者に芝居させない監督だった。
 濱口竜介監督は村上春樹が小説で出来なかったことをやったと私には見える。そして『ドライブ・マイ・カー』と『エッシャー通りの赤いポスト』というこのふたつの映画はたんにメタ構造というだけでなく、テキストと役者の切り離しという意味でもかなり近い意味を持っている。『ドライブ・マイ・カー』の劇中劇は役者同士がお互い理解できない言語で演じていることを思い出してほしい。そのぶっとび方は『エッシャー通りの赤いポスト』の劇中劇のぶっとび方とそんなに違わない。味付けがかなり違うのはみとめるが。
 
 

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エッシャー通りの赤いポスト

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