『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』

 ウエス・アンダーソン監督の最新作は、雑誌文化へのオマージュでありレクイエムであり、そのパロディでもある。
 紙の雑誌というものはどうやら滅びるらしいのだが、そんな終焉の時から振り返って考えてみると、日本からはついに世界中に読者を持つ雑誌は生まれなかった。
 この映画でビル・マーレイが演じる雑誌の編集長は、世界を旅して優秀なライター達を集めて、この「フレンチ・ディスパッチ」という雑誌を創刊した。彼自身はアメリカ人で、雑誌もアメリカの雑誌の別冊という形で出版されているものの、編集部はフランスの町にある。
 その編集長が急死した。遺言で「フレンチ・ディスパッチ」は廃刊されることとなり、この映画は、その最終号にして追悼号の映画版なのである。編集長が集めたライター達が最後の記事を寄せる。美術、政治、グルメについて。
 言い換えれば短編映画のアンソロジーだが、その凝ったスタイルがそのまま雑誌文化のオマージュでありレクイエムでありパロディになっている。
 圧倒的にナレーションが多い。特に、最後のグルメ記者などは、超人的な記憶力の持ち主だが、彼の記憶は映像的でなく、常に文章として記憶されていると明言する。
 つまり、奇しくもこの映画も『ドライブ・マイ・カー』と同じく、テキスト至上主義なのである。映像は、これはウエス・アンダーソン監督の好みでもあろう、敢えて平面的で、挿絵めいた描き方がされる。一部に嵌め込まれるアニメーションも、日曜版の漫画のような味わい。美術史的な言い方をすればクロワゾニズム的。
 オーウェン・ウィルソンティルダ・スウィントンフランシス・マクドーマンドジェフリー・ライトの4人の記者が書く記事から構成されているので、その4つのエピソードと全体像の5つのパートから成り立っているのだが、上映時間が2時間を超えない。濃密さを考えると魔法みたいだ。
 その各パートにはまたそれぞれ登場人物がいるわけで、いちいちあげないけれど、キャストの豪華さにも驚かされる。 
 また、女優たちが惜しげもなくヌードを披露している。裸婦画のモデルであるレア・セドゥは当然としても、リナ・クードリとティルダ・スウィントンはなぜ脱いでるのかよくわからない。ウォーターハウスか誰かの裸婦画が美術館から撤去されるといった不可思議な事態に対するウエス・アンダーソン監督のちょっとした抗議なのかもしれない。
 独創的で何層にも重なる複雑な味わい。『グランド・ブダペスト・ホテル』『ムーンライズ・キングダム』もよかったけれど、これがいちばん好きかも。
 『グランド・ブダペスト・ホテル』が、第一次世界大戦以前の欧州文明に捧げられた哀歌なのだとしたら、同じく今回の映画は、雑誌が担ってきたハイカルチャーのオマージュでありパロディでありながら、大衆的な娯楽の王座からとっくに退いている映画が、いつのまにかハイカルチャーの担い手になっている宣言でもあるように思えた。
 かつては『LIFE』が伝えた水俣を、今は、原一男の『水俣曼荼羅』が伝える。好むと好まざるとによらず、映画の現在地はそこなんだろう。


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