『ザ・スクウェア 思いやりの聖域』

 この映画はリューベン・オストルンド監督の『フレンチアルプスで起きたこと』に続く映画。『フレンチアルプスで起きたこと』は、普段はなかなかくすぐられないところをくすぐられる映画で、一昨年のカンヌの話題をさらい、ハリウッドリメイクも決定したりという、ユニークで新鮮な映画だった。
 そして、この『ザ・スクウェア 思いやりの聖域』は、去年のパルムドールを受賞したわけだから、是非とも観るつもりにしていたのであるが、今日まで放置することになったのは、主人公が現代美術を扱う美術館のキュレーターって事で、ちょっと、最近、現代美術に辟易しているところだったので、足が向きにくくなってしまっていた。
 もちろん、伝統的な絵画に出来不出来があるように、現代美術にも、くだらねえものからすばらしいものまで、玉石が糞まみれなのは分かっているが、ある現代美術の作家が、「芸術はもはや高価な壁飾りではない」と発言しているのを見て、一気に醒めてしまった。伝統的な絵画すべてを「高価な壁飾り」で片付けられる神経の鈍さ、一生のうち一枚の絵にも感動したことがない人間が、現代芸術をいかにも「進歩」であるかのように語っている、思考の低劣さに呆れた。
 現代美術が表現の幅を広げたのなら価値がある。束縛を超えて自由を手に入れたということだから。しかし、現代美術が、美術という枠の中の進歩だというなら、それは、カビ臭い進歩主義に雁字搦めになっただけのことである。
 で、見回してみると、コンテンポラリーアートの人たちには、内側からの衝動で自由な表現を求めている人よりも、とにかく新しいことをやらなきゃって、美術の先生に抑圧されておねしょが止まらないタイプが多いみたいなのだ。
 そんな具合に、現代美術にうんざりしてるところだったので、映画とは関係ないのだけれど、もし、その手の「先生、あたしこんな進歩的なの作りました!」的なの見せられたらたまんないなと思って迷ってたのであるが、先日、『万引き家族』を観て、よく考えたらパルムドールを受賞した映画がそんなしょぼいはずはないと、考えを改めたわけだった。
 と、前置きが長くなってしまったので、結論を早めに言うが、2時間半という長さであるにもかかわらず、観客を逸らさない、前作にましてユニークでエキサイティングな映画だった。
 特に、感心したのは、ギャグが冴えている。思わず笑ってしまったところがいくつかあった。ユニークなのは、セックスのシーンで笑えること。ふつうなら一番笑わさないはずのところでいちばん笑える。これはネタをバラしたくないので、是非観てもらいたい。碩学みうらじゅんに訊いてみなければ確かなことは言えないが、ああいう演出はポルノ映画の山をかき分けても見つからないのではないかと思う。
 それと美術館の展示品が笑いに絡んでくるのも、「わかってる」感じ。私は別にコンテンポラリーアートが嫌いなわけではない。コンテンポラリーアートでも、笑いの質が高いのはある。前に何度か書いたが、横浜トリエンナーレに展示されていた、テニスコートと裁判所(court)を掛けた作品なんかはサイテーの地口だったが、逆に感心したのは、東京国立現代美術館で観た田中敦子の作品で、展示室の入り口付近に非常停止ボタンかロケット発射スイッチみたいなのが置いてあり「押してください」ってなってる、それを押すと、有線でつながったいくつもの非常ベルみたいな装置が順番に鳴っていく。展示室の奥で絵を見ている人の後ろでけっこうな音量でジリリリとか鳴るわけで、押した人はけっこう焦る。でも、奥で絵を見てる人は、ここに入るときに、自分でもそれを押してるので、うるせえんだけど、また誰か押したなってニヤニヤする。これはかなり上級レベルの笑いだと思う。
 田中敦子にしてみれば、自分の絵を観てる人の後ろで、わざわざうるさい音を立てるように仕組んでるわけで、絵を観ることに対する問いかけでもあるし、まだ絵を見ていない人と、今見ている人を回路でつなぐ試みでもあるわけで、あれは今でも記憶に残っている。
 雑誌ELLEのサイトのインタビューによると、リューベン・オストルンド監督が影響を受けた映画監督の筆頭はミヒャエル・ハネケだそうだ。「ユニークなアプローチや慈悲の無さ、それでいてシーンを作り出す時の繊細さや丁寧さ」、ただ、アキ・カウリスマキロイ・アンダーソン「に比べてハネケにはユーモアがないですよね。私にはその両方があるのかもしれません。」
 アキ・カウリスマキ宮藤官九郎が大好きだそうで、『希望のかなた』は映画館で二回(もっとかな)観たと書いていた。でも、私はあのギャグは少しゆるいと感じる。よく言えばオフビート。それは、このインタビューで気がついたのだけれど、アキ・カウリスマキには、たしかに、ミヒャエル・ハネケに比べて、丁寧さと無慈悲さが足りないためだと思った。そして、リューベン・オストルンドは、その自己分析のとおり、ユーモアと残酷さの両方を持ち合わせている。登場人物にとっては悲劇であることが観客には笑える。それがやはり鍵なんだろう。
 映画の後半、猿みたいな人がディナーに乱入するパフォーミングアートがあるが、美術館の出資者を招いたレセプションのディナーで、あんなパフォーマンスを企画する美術館は、実際にはありえないだろう。だけど、ああいうパフォーミングアート自体はありうるわけだから、もし、それが出資者のディナーで行われたらというのは、とても映画的な表現だった。
 冒頭、主人公がインタビューを受ける中で、美術館のHPの文章の意味を教えてくださいと言われて、「例えば、あなたのバッグを美術館の床に置けばそれがアートなのかということです」と説明する場面について、リューベン・オストルンド自身がハフィントンポストのインタビューで

このような問いは、100年以上前マルセル・デュシャンがトイレの便器を美術館に置いた時から、なされています。しかし、美術館はいまだに同じ問いに執着しているんです。私に言わせればそれはどうでもいいことで、私が関心があるのは、それがなんであれ新しい体験をもたらしてくれるかどうかということなんです。

 マルセル・デュシャンの便器をコンテンポラリーアートの作家たちは神と崇めて、それがすべてのアートの源流だと信じている。そして、事実上、そこから1ミリも動かずにいる。R.Muttとサインされ《泉》と名付けられたその便器は、アートに対する懐疑そのものだった。その懐疑の前に身動きできなくなった連中がすがりたっているのがコンセプチュアルアートである。しかし、コンセプトがあれば、便器がアートになりうるとすれば、その逆流もありうる。コンセプトがあっても便器は便器であることを辞められない。辞めればコンセプトに反するからである。だとすれば、コンセプトがあるかぎりアートは永遠に成立しない。コンセプトが何かをアートに変容させれば、その時点でコンセプトが消失するからである。
 したがって、コンセプトはアートを成立させない。コンセプトはありうるが、コンセプトがあるからアートがあるのではなく、むしろ、コンセプトがあるにもかかわらず、アートがありうる。圧倒的な懐疑を前にしても、人は表現する。問題は表現そのものであり、コンセプトではないことになる。
 ザ・スクウェアは、実際にリューベン・オストルンドスウェーデンノルウェーで行なったアートプロジェクトだったそうである。
 アートという枠があり、一方では映画という枠があり、そして、枠のない現実があり、それらを結びつけようとするメディアがあり、いくつもの枠を出たり入ったりしながら進んでいく、2時間半という時間、観客を逸らさないのは、その際どいスリルであるだろうと思う。