長谷川利行展

 虹の画家といえばわかる人も多いと思う靉嘔の回顧展が2012年にあった。そのとき印象深かったのは「これでもう絵を描かなくてもいい」という言葉だった。
 それは靉嘔が虹を始めたきっかけについて書いた文章で、線やフォルムは過去の巨匠たちの焼き直しにしかならない、残されているのは色だけだが、ピカソのように青の時代、桃色の時代、白の時代と、一つずつの色を追求していては、何度生まれ変わっても完成に至らない。用いるべきはすべての色でなければならない。しかも、光のスペクトラムどおりの順番でなければならないと、赤から紫へ、キャンバスを埋めていった。
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 描き終えて、「これでもう絵を描かなくていい」と思ったそうだ。
 描く以外の選択肢が、事実上、無限に広がっている今という時代、絵を描くことについての閉塞感に画家が襲われることはあるのだろう。絵を描くよりも、便器さがしの旅にでも出た方が、はるかによいと思うのも無理からぬ話である。
 そして、靉嘔は虹を発見した。もはや誰があの虹を描いてもそれは靉嘔の絵にしかならない、そんな圧倒的なオリジナリティーを持っているのは、アンディ・ウォーホルのキャンベルのスープくらいではないだろうか。
 しかし、オリジナリティーについて、アンディ・ウォーホルは「そもそもどうしてオリジナルである必要があるの?」と言っていたそうだ。昔の日本の絵には、国宝級のものでも「作者不詳」のものが多くある。一旦描かれた絵は、便器やスープの缶と同じように、モノとして世界に存在し続ける。オリジナリティーにこだわるのは評論家であって画家ではない。
 靉嘔の「線やフォルムは過去の巨匠たちの焼き直しにしかならない」という意見は、おそらく間違っていたと思う。
 新たに描かれるすべての線も、フォルムも、色も、ひとつとして、過去の巨匠の焼き直しになったりしない。というより、たとえば、ラファエロ、たとえば、ルーベンス、たとえば、ダ・ヴィンチを巨匠に祀り上げるのも、新たな画家たちをその焼き直しとこき下ろすのも、評論家の視点にすぎない。彼らの目はそのような目にすぎないために、マルセル・デュシャンが美術館に置いた便器の前で100年も身動きできずにいる。
 虚無に向かって一本の線を引くことすら敢えてしないものが、アートはそんなところではなく、自分たちのコンセプトの中にあると言いながら、その実、寄って立っているのは、100年前の便器にすぎない。
 てなわけで、府中市美術館で開かれている長谷川利行展を訪ねた。
 長谷川利行は1891年に京都に生まれ、若い頃は、絵筆ではなく文筆の人であったらしく、私家版の歌集なども出していたそうだが、1921年に上京し、1923年には自作の絵が公募展に入選しているから、いつのまにか画家になっていた。
 しかし、その年の9月に関東大震災があり、その後、1940年に亡くなるまで、今の言葉でいえば、ホームレス、という言い方が上品すぎるとすれば、何者でもなく、ただ死に向かって安酒を飲み続け、絵を描き続け、最後は胃癌で倒れているところを東京市養育院に収容されてそこで死んだ。
 図録を読んでみても、Wikipediaでも、どういう人だったかほとんどわからない。これは『月映』の時にも驚いたが、萩原朔太郎の処女詩集『月に吠える』は、日本の近代詩で最も有名な詩集だと思うが、その装丁に関わった田中恭吉、恩地孝四郎について、ほとんど何もわかっておらず、『月映』の同人だった田中恭吉、恩地孝四郎、藤森静雄の作品は、つい最近まで、どれが誰の絵かも分かっていなかったそうだ。
 長谷川利行の場合もそれに似ている。ただ、絵だけが残ったという風に見える。関東大震災の年の11月に『火岸』という歌集を刊行している、その中に、

絵を描くことは、生きることに値すると云ふ人は多いが、生きることは絵を描くことに価するか。

と書いている。




 これらの絵が過去の巨匠たちの焼き直しだろうか?。どこをどうみても長谷川利行の絵でしかない。この絵の中に過去の巨匠たちの影を探そうとするほどつまらない鑑賞法もない。それよりはむしろ、過去の女の面影を探す方がはるかにマシ。