田中敦子

knockeye2012-03-27

 日曜日のつづき、東京都現代美術館で、靉嘔の「ふたたび虹の彼方に」と併催されている田中敦子の「アート オブ コネクティング」展も面白かった。
 1955年に発表された<作品>(ベル)は、鑑賞者がボタンを押すと、5メートルくらいの間隔で床に置かれたベルが近くのものから順番に鳴り響き、約40秒で往復する。
 このベルの音がきわめて散文的で、火災訓練とかで鳴るやつを思い浮かべてもらえればよい。しかしそれが、静かな美術館の展示室を行って戻って来る。
 抽象絵画が数多く展示されていて、それは、この人の代表作<電気服>の設計図から発生したもので、複数の円形の色面を複数の線がつないでいるバリエーションだが、それを観てまわっている間も、誰かが押したベルが行って戻ってくる。あるいは、来て戻っていく。
 それで否応なく気付かされるのは、いま目の前にある抽象絵画が、じつは今鳴り響いているベルの音のようなものの設計図であってもおかしくないということである。
 つまり、電気服のように、多数の電球が規則的に明滅するとか、20個のベルが順番に鳴るとかの現象を図として定着させることも、裸婦の姿を写しとると同じく絵であるということを、後ろで、あるいは横で、鳴り響いているベルの音が、具体的に示しているような不思議な感覚。絵のモデルと絵が並べて置いてある感じ。実際に、ベルの配線図(というのか)が展示されていたが、ぎざぎざのハート型で、それ自体立体作品といえなくもない。
 そういえば、野村仁の<moon score>とか<Gru’s score>とかは、月の写真や渡り鳥の写真に五線譜を重ねて、演奏しているものだった。
 また、パウル・クレーやラウル・デュフィの絵を観ていると、リアルに音楽を感じることがあるが、一般に空間芸術とよばれる絵画や立体作品が、空間の写しにすぎないとしたらつまらないことだろう。
 難波田史男がいうように、絵は、日常のありとあらゆるものを、‘もういちどシンボルとして取りもどす’のである。