五姓田義松

 神奈川県立歴史博物館に「明治150年記念 真明解・明治美術/増殖する新ニューメディア ―神奈川県立博物館50年の精華―」。

 みなとみらい線馬車道駅を降りると目の前にある、昔、横浜正金銀行の本館だった建物がそれ。

 五姓田義松の絵が観たいなと思った。

 五姓田義松って、何者だったんだろうと、ふと気になり、多分この機会を逃すとまとめて観る事もないかもと、抜歯したばかりの痛みをこらえながら出かけたわけだった。

 話がそれるけど、「雨上がりのAさんの話」によると、口腔外科と耳鼻咽喉科犬猿の仲だそうだ。縄張りがかぶっているので、シマの取り合いみたいな小競り合いはしょっちゅうなのだそうだ。「それでか」と思い当たったんだけど、副鼻腔に膿がたまってるんだったら、「歯を抜かずに、耳鼻科で処置できないんですかね?(笑)」って聞いたら、何もそこまでってくらい激怒されてしまった。これから歯を抜く医者が感情的になってるのは怖いよね。そのせいか、痛みも三割増しくらいな感じがする。

 それはともかく、五姓田義松は、横浜美術館に足繁く通っていると、よく目にする画家である。ただ日本の絵画史に(というか、個人的な絵画体験史に)、どう位置付けていいのか、ちょっと戸惑う。日本人が油彩画に取りくみ始めた、まだ見よう見まねのころ、手探りの時期の未熟な作品といってしまってもよいのだけれど、それは、足場を西洋美術史に置いて、それを疑わない態度にすぎないし。

 黒田清輝は「日本人の頭脳から出ると云ふ事柄に就いて、油絵も遂に日本化させられて一種違った日本風と云ふものになることは極まって居る」と書いている(「絵画の将来」、石川松溪編『名家訪問録』第一集、明治35年)。彼の代表作《湖畔》は1900年のパリ万博に出品されたが、特に話題にはならなかったようだ。それどころか、エコール・デ・ボザールで彼の師匠だったラファエル・コランは、「黒田は日本に戻って腕が落ちた」とまで言ったそうだ。しかし、私たちにはあの絵の革新性がわかるはずである。あの絵には、それまでの油絵が捉えたことのない、日本の夏の湿潤な空気、日本女性の肌、浴衣の木綿の質感までもが捉えられている。

 一方では、日本人自身も変化したのではないだろうか。高橋由一が描いた自分の顔を見て、モデルになった小稲は「私はこんな顔じゃない」と泣いた。日本人は、黒田清輝のころになってようやく、油彩で描かれた自分たちの顔を、自分たちの絵だと自然に思えるようになった、とも言えるが、むしろ、油彩画という「ニューメディア」に自分たちの美のスタンダードをあわせていった、とも言える。

 明治時代の日本に起こった絵画を観る目の変動は、絵画の秘密について、何かを耳打ちするように思う。絵画のボキャブラリーやスタイルなどほとんどすべてが更新され、そしてそれが、誰に強制される訳でもなく自然に行われたのがとても不思議。春画展で江戸時代の春画を観たが、これが何を表しているのか、どういう鑑賞態度で接すべきものなのかほとんどわからないのが、今の私たちのホンネではないかと思う。だとしたら、私たちは変わったのである。

 そんな変動期に絵を描いていた五姓田義松にとって絵が何だったのかは、やはり興味深い。今回の展覧会のポスターにも使われている《老母図》は、「いい絵ですね」と思わず学芸員さんに言ってしまった。それは、見方を変えれば、《老母図》は、今の私たちと絵画言語を共有していると言えるのだろう。個人的には、この絵の遠くに、クロード・モネの《死の床のカミーユ》を観ている。

 今の私たちには、この絵が五姓田義松の画家としての実力を知らしめるわけだが、だとすればそれ以外の絵も絶対に何かなのである。おそらく五姓田義松は絵を写実だと思って愚直に描き続けた。しかし、臨終間近の母の姿を写した《老母図》では、その愚直さが写実を超えて表現になっている。

 神奈川県立歴史博物館は、かつては五姓田義松の回顧展を催したこともあるが、今回の展覧会は、もっと広範な明治初期のメディアの変動に焦点を当てている。それこそ宮川香山、柴田是真、河鍋暁斎、チャールズ・ワーグマン、ジョルジュ・ビゴー、そして、五姓田義松の父、五姓田芳柳の絵もあるが、五姓田義松の絵を堪能したい場合は、常設展もお勧めしたい。五姓田義松のコーナーがあり、そこは撮影可になっている。

 フランスに留学中の黒田清輝を、画家の道に引き入れた山本芳翠は、五姓田芳柳の弟子だった。五姓田芳柳は、Wikipediaによると、一時期、歌川国芳の弟子であったことになっている。しかし、神奈川県立歴史博物館の学芸員さんの見解では、どうもはっきりしないってことだった。