これはもう先月の半ばごろ、ポーラ美術館で「モダン美人誕生」という展覧会を観てきた。
岡田三郎助を観る機会は少ないのではないかと思って。
≪あやめの衣≫と
≪来信≫。は、うなじから背中の質感と量感と着物のデザインが絵のモチーフであることがはっきりとわかる。描かれている着物は実在のもので、それも展示されていた。そういうことすべてが、日本の油絵をめぐる成熟を示している。
高橋由一が≪花魁≫を描いたのはまだ明治になったばかりのころだった。明治5年頃。
このころはまだ油絵で日本女性の美意識、というか、自意識でもあるか、をどう表現すればよいか、発見されていなかったと思う。
それができるようになったのは、黒田清輝からなのかなと、今のところ思っている。
これが明治30年。モデルになった照子夫人の回想によると「私の二十三歳の時で、良人が湖畔で制作しているのを見に行きますと、其処の石に腰かけてみてくれと申しますので、そう致しますと、よし明日からそれを勉強するぞと申しました。」
このときの「勉強」という言葉が印象的。黒田清輝はすでに≪読書≫でパリのサロンに入選もしていたがそのモデルはフランス女性であって、この≪湖畔≫の「勉強」で、日本女性の美意識と油彩画の表現が合致したんだと思う。
岡田三郎助の≪あやめの衣≫はもう昭和2年。連想されるのは、萩原朔太郎の『純情小曲集』の序文にある「あやめ香水」。こうある。
「やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉つぱのやうな詩集を出すことにした。「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であつて、始めて詩といふものをかいたころのなつかしい思ひ出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であつて、何となくあやめ香水の匂ひがする。」
この詩集が出版されたのが1925年というから、≪あやめの衣≫と同じころだった。
あやめは日本の美術史をふりかえればもちろん尾形光琳の≪燕子花図屏風≫を思い出させる。和洋折衷に成功したこの時代に、琳派のモダニズムが無意識に連想されているのが面白いと思う。
≪婦人像≫は明治40年に描かれた。モデルは三越の理事をしていた人の奥さんで、高橋千代子という人がモデル。のちに、三越の着物のポスターにもなった。今でいうメディアミクスみたいなことだったのかもしれない。「三越の元禄ブーム」に一役買ったそうだ。元のタイトルは≪紫調べ≫といって、鼓に紫色の調べ緒を付けて打つという芸道の習わしからとったタイトルだったそう。この背景の金屏風の下部にあるのは光琳の波じゃないだろうか。
一枚目の≪あやめの衣≫の肩から背中の色っぽさは、たとえば、
竹久夢二が撮ったお葉さんの写真は、たしかにヌードだけど、写っているのは背中だけなのに、この色っぽさは逆に今ではちょっと見かけないものなのかもしれない。
この撫で肩は着物に合うが、たぶん洋服には困るんじゃないかと思う。女性の美意識は、体ごと進化させてしまうのかもしれない。
ちなみにこのお葉さんをモデルにした藤島武二の
≪女の横顔≫という絵も展示されていた。
このおでこから鼻にかけてのラインが日本人にはめったにいないと気に入ったのだそうだ。でもこれって
ボッティチェリの《美しきシモネッタの肖像》のパクリだって誰でもそう思うでしょう。
この歌川国貞の時代から、日本の美人って意識がずいぶん変わったものだと思うのです。美人が変わるって、ちんこが立つか立たないかが、変わるってことで、種の保存に関わっているのに、それがあっさり変わるって。
西洋の美人って
これがポンペイの壁画。
17世紀のグイド・レーニの≪ルクレティア≫
これが2世紀後半ごろのエジプトの棺に描かれた肖像。
これは19世紀のシャセリオーの≪カバリュス嬢の肖像≫
ほとんど変わらないって気がしませんか?。
日本女性は、でも、変わるってことなんですよ。それはそれでいいじゃないかと思うのです。