『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』

knockeye2015-09-19

磯崎新と藤森照信の茶席建築談議

磯崎新と藤森照信の茶席建築談議

 『磯崎新藤森照信の茶席建築談義』を読み終えた。
 一般に対談は読みやすいが、2013年5月から2014年7月、1年以上の時間をかけたこの対談集は、情報量がハンパじゃない。ふたりが持ち寄った資料もおそらくは膨大だろう。でなければ、常人ならぬ記憶力ということになる。さらに、対談のために足を運んだ場所や、対談そのものを行った場所も日本各地に散らばっている。読んでいると、自分でも足を運びたくなる。こういう風に丹念な作り方をしていくと、対談集も「歴史の評価に耐える」書物になる。
 最近は、対談集をよく読む。しかし、よく考えてみると、プラトンだって、お釈迦様のお経だって、いわば対話だし、この形式は、むしろ、著作より自然なのかもしれない。
 この本は、『茶室学』という藤森照信の著作の、巻末に付せられた対談が発展したもので、あの「茶室学」てふ本も「学」と言いつつ、「茶室建築体験記」とか、「台湾お茶紀行」みたいな軽いものなのかなと見せつつ、実は、ホントに「茶室学」だったという、なかなか一筋縄でいかない本だったが、それでも、巻末に磯崎新との対談が加わることで、テーマがさらに掘り下げられるし、広がりも見せる、その驚きが、この本につながったろうと思う。
 藤森照信は、自ら建築も手がける建築史家、磯崎新は世界的な建築家だが、「建築外思考」と銘打って、ワタリウム美術館で展覧会をする人。あのワタリウム美術館での展示についても、この本の中で触れられていた。
 あの時の展覧会でも最も印象に残っているのが、フランスで行った「間」展の紹介だった。日本の美意識を西洋の論理に翻訳し、そうして得られた仮説によって、日本の美を再生産する、といった意味のことを語っていた。その「間」について触れられている、第11章は、この本の中でも最も刺激的であると思う。
 岡倉天心の『茶の本』が英語で出版されたのが1906年、欧米の知識人に広く読まれた。パリ陥落寸前に、日本に向け出航したシャルロット・ペリアンが、日本について得ていた知識が『茶の本』だけだったというのは、以前にも書いた。今、私たちはこの本を、お茶についての代表的な本だと認識しがちだが、日本語に翻訳されたのはずっとあとで1929年だそうだ。というのも、出版当時の日本では、今のような茶道はむしろ廃れていて、主流なのは煎茶だった。その背景には、幕末の文人たちが煎茶を好んだことがあった。明治維新の思想的な根拠を提供したのは、そうした幕末の文人たちだったわけだから、明治維新のあと、茶といえば、煎茶となるのは当然のようだが、一方で、煎茶は、漢籍の教養と一体だった。維新後の急速な西洋化、近代化の中で、そうした煎茶がかえりみられなくなるのは、歴史の必然のように思われる。
 岡倉天心は、ボストン美術館に雇われていた。いわば、西洋を席巻したジャポニズムの寵児であったわけだが、日本に押し寄せる西洋化の速さと激しさもひしひしと知っていた。その相反する潮流のせめぎ合いの中で、あの本は書かれた。西洋と東洋が思想的な位相でぶつかり合っている時、意識に上ってくるのが、当時の流行と関係なく、利休以来の美意識だったことが興味深い。
 磯崎新は、おそらく岡倉天心の意識は、利休を超えて陸羽まで及んでいたと指摘している。というのは、岡倉天心の捉え方が禅よりも、むしろ、道教に近いことを指摘して、「道(タオ)」が英語にどう訳されているかを、天心が列挙した箇所に注目している。そして、フランク・ロイド・ライトが『茶の本』に書かれている、そうした道教的な要素、「無用の用」とか、「虚」といった概念を誤読して、建築における「空間」の重要性を意識し始めたと推測している。
 フランク・ロイド・ライトは、建築家としてというより、浮世絵のバイヤーとして来日した。この話を聞いて、私が思い出したのは、水墨画のコレクターでもあったピーター・F・ドラッカー根津美術館でした講演の一節。また引用すると、

この光琳の扇面は叙述的描写ではなく、「デザイン ー 意匠」なのです。私たちはデザインが何を意味するのかは知っていますが、それをはっきりと定義づけることはできません。デザインとは空間構成と関係するものであり、デザインにおいてはこの団扇に見られるように、常に最初に空間があり、そしてデザインによって余白を仕切られ、構築され、さらに限定されるのです。

もし、藤森照信磯崎新の対話を読んだあと、このドラッカーの一節を読んだひとは、感嘆せざるえないだろう。結局、ジャポニズムとは何だったのかを考えるとき、「空間」という概念が重要なテーマだったと指摘できるひとは少ないはずだ。
 フランク・ロイド・ライトが出版した図案集は、ミース・ファン・デル・ローエらに影響を与える。磯崎新によれば、モダニズム建築の重要な概念のひとつは、「ユニヴァーサル・ スペース」だが、そもそも、この「空間」という概念が重要になるのは、そんなに古いことではないそうだ。
 フランク・ロイド・ライトの誤読は、もちろん、彼の創造であるが、彼の同時代の建築家であるアドルフ・ロースが1910年頃に提唱した方法論に「ラウム・プラン」というのがあった。このドイツ語を日本語に訳せば「空間計画」となる。「空間」という認識が同時代的なものだったのが分かる。
 実は、アドルフ・ロースの「ラウム・プラン」を日本語に訳したのは、東畑謙三という建築家で、「ラウム」の訳語に困って、彼の義兄であった三木清に相談した。「空間」という日本語は三木清がこのときに造ったものだった。
 だから、当時、西欧の最先端の美意識が、東洋の美意識にインスパイアされて、空間という概念の重要さを確認した、と同時に、日本人は、伝統的にほとんど無意識に受け継いできた「空間」という感覚を、国際化された「空間」という概念として、輸入した。
 モダニズムが、西洋がどうの、東洋がどうの、ということでなく、二つの美意識がせめぎ合い、響きあいながら、立ち上ってゆくダイナミズムから生まれてきた、その現場を追体験できるようで、この本はすごくエキサイティングだ。
 日本建築史を定義したのは、岡倉天心の同時代の伊東忠太だが、彼は、岡倉天心フェノロサの東洋美術史の時代区分を、ほぼそのまま建築史に移している。だが、伊東忠太の方もまた、岡倉天心に影響を与えている。
 フェノロサ岡倉天心法隆寺秘仏を調べたのは有名だが、伊東忠太は明治26年に実測に基づき『法隆寺建築論』を書く。そして、学生だった武田五一に同じように実測に基づく「茶室論」を書かせる。それが実は、『茶の本』の8年前だった。このあたりのことは「茶室学」の方に詳しい。
 明治という時代は、法隆寺から千利休まで、あるいは、浮世絵まで、日本の美の伝統が、再発見され、再定義されていった時代だった。そして、それが、世界全体の美術のうねりに合流していった。ミース・ファン・デル・ローエは、おそらく、現代の都市空間の原型を作った。ドラッカーの言うように、デザインという言葉を、私たちは、はっきりと定義せずに使っているが、そのデザインの内側に、法隆寺パエストゥムが息づいているとしったら、その方がずっと豊かだと思うし、それを知らなければ、歴史に復讐されることもあるのではないかと思う。