ザハ・ハディド

knockeye2014-11-08

Zaha Hadid: 1950 the Explosion Reforming Space (Taschens Basic Architecture)

Zaha Hadid: 1950 the Explosion Reforming Space (Taschens Basic Architecture)

 初台にあるオペラシティアートギャラリーで開かれている、ザハ・ハディドの展覧会には、たしか初日に出掛けた。
 ウエブサイトの紹介には‘長らく「アンビルトの女王」(アンビルト=建設されない)の異名を与えられていました’とあったので、実現している建築はそんなに多くないのかと思っていたら、とんでもなくてひと渡り見るだけでも時間を食ってしまうほどだった。
 安藤忠雄が、現代の都市風景にいちばん影響を与えた建築家はミース・ファン・デル・ローエだろうと書いていたが、ミース・ファン・デル・ローエの建築そのものはともかく、現代の都市風景を占領している直方体のビルディングが発想しているのは、空間の最も効率的な利用ということなんだろう。四角い地面の上空を最大に占有しようとすれば、二次元の長方形をそのまま三次元に引き延ばして直方体にするしかない。そうして、現代の都市風景の大部分を、そんなガラスやコンクリートの直方体が占めることになる。
 ザハ・ハディドの建築は、一見して、そのアンチテーゼに見える。特に、アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフセンターの曲線の美しさには目を奪われる。あるいは、グラスゴーのリバーサイドミュージアムなどの見た目の美しさだけではなく、ソウルの東大門デザインパーク、北京で進行中の中央商業地区コアエリア、ドイツのフェーノ科学センター、香港工科大学ジョッキー・クラブ、イノベーションタワーと見ていくと、ザハ・ハディドの発想には、空間そのものについての問い直しがあるのではないかと思えてくる。
 さっき書いたように、たしかに、四角い地面に四角いビルを建てれば、所有する土地に付随する、空間の100%を占有することができる。しかし、考えてみれば、それはたんに「囲い込んだ」だけ。囲い込んだ内側では、その空間をまた、何重にも区切って、ちいさな囲いを作っていくだけだ。
 こうした「囲い込み」を、誰もが長い間、「空間利用」だと信じて疑ったことがなかった。
 ザハ・ハディドの建築は、これにはっきりと異を唱えている。
 囲い込むことが空間利用のすべてか?。あるいは、すくなくとも、四角く区切ることが、最も効率的な利用方法なのか?。考え始めると、じつはそれさえ疑わしくなってくる。
 ザハ・ハディドは、壁と床は別個の存在で、それらは直角に交差するものだという固定観念にすら挑戦している。
 さて、そういう目で見てくると、今度の東京オリンピックのために作られようとしている新国立競技場はどうか。彼女の今までの作品である、アゼルバイジャングラスゴー、フェーノ、マルセイユ、北京、香港、ソウルの建築に較べてみてほしい。
 11月5日に磯崎新が、それについて、報道各社に声明文を配信した。その全文を読んで、裏の事情が分かった。
 要するに、国際コンペを開いて、ザハ・ハディドの案を採用したにもかかわらず、どういう都合か、最初の案とは似ても似つかないものに改変してしまったらしい。
 役人連中には、国際コンペという体裁と、ザハ・ハディドの名前だけが、必要なのであって、その結果が、磯崎新の言う「粗大ゴミ」になろうとも、彼らには一切関心がないのだ。
 連想するのは、上野の国立西洋美術館だ。あれは、ル・コルビュジエの作品として、世界遺産に登録しようと、運動しているらしいが、実は、当初の計画を大幅に縮小した上に、後から不細工な増築をしている。この厚かましさは、かなりの恥ずかしさじゃないだろうか。
 アゼルバイジャン、英国、フランス、ドイツ、韓国、中国で、素晴らしい建築が残っているのに、なんで日本の役人だけそういうみっともないことをするんだろうか。
 それを考えると、大阪万博をプロデュースした堺屋太一は、役人であってもやはり気概があったと思う。太陽の塔岡本太郎の代表作だと思うし、仮に今もういちど大阪万博があったら行きたいと思うもん。
 私の手元に、TASCHENからでている、ザハ・ハディドの作品集があるんだけれど、ここにもし東京の新国立競技場が加わったら見劣りするぞぉ。
 日本の役人って、日本人に恥かかせようと必死なんかな?。
 いずれにせよ、今、日本が国際的に衰退している、その元凶について痛感させられる出来事だった。