「パッション・フラメンコ」、日本の家

knockeye2017-10-07

 フラメンコの第一人者、サラ・バラスのドキュメンタリー「パッション・フラメンコ」を新百合ヶ丘アルテリオで観た。この夏にBunkamuraで上映されていたらしいが気が付かなかった。
 パコ・デ・ルシアアントニオ・ガデスカルメン・アマジャ、カマロン・デ・ラ・イスラ、エンリケ・モレンテ、モライート・チーコ、今は亡き6人のマエストロに捧げた『ボセス フラメンコ組曲』初演までの3週間と、世界ツアーを丹念に密着取材して公演を多角的に再構築している。
 パコ・デ・ルシアとカマロン・デ・ラ・イスラは「パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト」で知っているけど、ほかの人は知らない。
 パリ、シャンゼリゼ劇場での初演、NYで、ローリングストーンズのサックス、ティム・ライスとの共演などきらびやかな表舞台も素晴らしいが、彼女は17歳のときに日本のタブラオの老舗(40年の歴史がある)エル・フラメンコでダンサーとしてデビューした、その時暮らしていた小さなアパートに訪ねていくところなんかは、しみじみ胸を打たれた。
 タブラオってのは、「サクラモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ」に出てくるように、もともとは自然にあった洞窟を住居兼バーみたいにしつらえた、フラメンコができる小さな舞台のあるお店のことだが、そういうのが日本に40年も昔からあるってのが不思議だけど、サラ・バラスはその日本の店で、お客として来ていたアントニオ・ガデスなどの巨匠と出会ったそうだ。
 日本って奇妙な国だね。前に書いたようにヴィンテージ・ジーンズも日本発のカルチャーだし、オリジナルは日本じゃないんだけど、外国の文化にあこがれてすんなり受け入れてしまう。今では、本家のサクラモンテのタブラオさえ日本人がオーナーになっている店もあるそうだ。
 良くも悪くも、それが日本の魅力だし、強みでもあるのに、水原希子がCMに出たりすると「日本人を使え」なんて苦情を言うのはほんとに馬鹿だね。
 しかし、パリ、NYに続いて渋谷を見ると、何ともしょっぱいなと思っちゃう。戦後まともな都市計画ってのがひとつもないわけだから、今でもわたしたちは、焼け跡の安普請に暮らしてるだけ。
 そういえば、東京国立近代美術館で開催されている「日本の家」展も観たんだった。これは、前にパナソニックミュージアムであった「日本、家の列島」って展覧会が、これはあのときは、何と言ってもあくまで個人の住宅ってこともあり、遠慮してはっきり書かなかったけど、なかなか悲惨なしろもので、日本に公共性とか社会性が欠如していることをまざまざと見せつける展覧会だった。こいつら全員引きこもりかよって思った。もともとパナソニックミュージアムがインテリアのショールームの一部ではあるので、ハウスメーカーステマみたく見えた。
 その印象もあって、観たい半分、観たくない半分で出かけたのだが、今回のは前よりはよかった。

 家は家族のあり方を規定している。そのことを戦後間もない時期に主張したのが、女性建築家第一号とも言われる浜ロミホ(1915-1988)でした。彼女は1949年に出版した「日本住宅の封建制」において、日本のそれまでの家が、一家の主が別の家の主を迎えることを主たる目的として構成されてきたと指摘しました。そして、そうした機能を象徴する玄関や床の間を、今後の家からはなくしていくべきだと主張したのです。
 つまり建集家たちは、家のデザインを通じて新しい家族のあり方を世に問うているということでもある。それは別の見方をすれば、たとえばハウスメーカーが提案するような標準的な家族像に基づく家に違和感を感じる人違が少なからずいて、彼らが建築家と協働して、新しい家族のあり方を提案一実践しているということでもあリます。この章では以下のような実例を見ることができます。ひとつひとつは小さな例であれ、家族というあり方を鋭く批評しようとしていることがわかるでしよう。
家父長(主人)を中心とする家から、対等な夫婦の暮らしがコアとなる家へ
夫婦一男と女が対等な存在となるために、個別に社会と接続する回路を持つ家
社会の中に家族があり、その中に個人がいるという階層構造からの脱却を目指す家
LGBTのカツプルのための家
職住を分離するのではなくて職住をー体化することを目指す家(そこでは「他人」と生活空間をシェアすることがポイントとなる)
人間以外の生き物との共生を目指す家

 ただ、この文章ほどに展示に説得力があるかというと、私自身が建築を見る目を持たないせいもあり、ダイレクトに伝わるものがあるとは感じなかった。
 ワタリウム美術館重森三玲の庭を特集したことがあったが、それはやっぱり苦労していた。スタッフが現地で撮影した動画を流していた。それは良かったが、でもそれだと、ネットで動画を配信すればいいんじゃないの?ってことになりかねない。ザハ・ハディドル・コルビュジエの展覧会も訪ねたことがあるが、どちらかというと、本で読んだことの方が記憶に残っている。今回も展覧会よりむしろ本で読んだ方が分かりやすい内容かもしれない。