アスガー・ファルハディの『誰もがそれを知っている』観ました

 前作『セールスマン』、前々作『別離』が、続けてアカデミー外国語映画賞を受賞したアスガー・ファルハディ監督の最新作。
 今回の『誰もがそれを知っている』は、ハビエル・バルデムペネロペ・クルスのスペイン出身のアカデミー受賞者ふたりに加えて、アルゼンチン映画として初のアカデミー外国語映画賞に輝いた『瞳の中の秘密』で主演したリカルド・ダリン。
 と、こうスターをそろえると、イランの役者さんたちを使ってた時と、演出の勝手がちがうのではないかしらむ、と、危ぶむのも無理はないわけだが、そこで、微動だにしないのは、やっぱそれでこそ巨匠なのだった。
 スペインの小さな村が舞台になっているのもよいのかもしれない。パコ(ハビエル・バルデム)が営んでいるぶどう農園が、ある意味では、隠れた主役だとおもえたほどだ。ストーリー展開にともなって、畑の姿がうつろっていく、その感じは、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』のブライヅヘッドとか、北杜夫の『楡家の人々』の楡病院とか、じつは、登場人物よりも、それらの人々が集い去っていく、土地の地霊が主人公ではないかと思わせるような、すぐれた小説のあじわいにけっして引けを取らないと思う。
 そして、家族。家族という概念がほぼ消滅してしまった国で暮らしていると、家族の概念が現に生きているらしいラテン社会が、そのよしあしにかかわりなく、痛みを伴うほどのなつかしさを感じさせる。
 「誰もがそれを知っている」というタイトルは、原題の直訳らしい。よくできたタイトルだと思う。「誰も」というのが、不特定多数の「誰も」ではないのだ。たとえば、「村の誰も」だったり、「家族の誰も」だったり、通りすがりの旅人が、たまたまこの村に立ち寄った時、この事件に居合わせたとすれば、あるいは、新聞の三面記事にすらならない、ありふれた事件なのかもしれなかった。
 しかし、「誰も」が知っている。その旅人以外の誰もが知っている。家族だから、隣人だから、知っている。それは、知識でも教養でもなく、もしかしたら、事実ですらないかもしれないが、しかし、知っている。だから、居合わせた旅人には見えないところで、物語が動いている。その感じがすごくうまかった。
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「その結末に誰もが息をのむ、極上のヒューマンサスペンス」、あいかわらず、萎える感じのキャッチコピー。ペーパーバックの推理小説みたいだが、そうじゃない。
 それをいうと、『別離』も『セールスマン』も推理ドラマの要素はあった。あの二作品のどちらかを観ていただいた方には説明しやすい。たしかに、犯罪が描かれているが、テーマは謎解きじゃない。だから「その結末に誰もが息をのむ」はウソ。もっと、ずっしりと、観終わった後に余韻を残すラストだ。
 パコ(ハピエル・バルデム)とベア(バルバラ・レニー・ホルギン)、ラウラ(ペネロペ・クルス)とアレハンドロ(リカルド・ダリン)の二組の夫婦の関係が、シーンごとに、微妙に揺らいでいく。スペインの小さな村の家族なのに、まるで『ゴッドファーザー』のコルレオーネ一家の物語を見ているような気になる、重厚で陰影に満ちた映画だった。
 このアスガー・ファルハディも、また、ジャハール・パナヒや、亡くなったが、アッパス・キアロスタミも、こうした優れた映画監督のためにも、アメリカとイランが和解したことを喜んでいたが、トランプ政権になって話がこじれているのが残念だ。
 イランは、もとはといえば、ペルシャなので、その文明は、イスラム教の歴史よりはるかに古い。文明が宗教より先に発達した土地では、原理主義は長続きしないと思う。
 さいきん、トランプ大統領は、ボルトンを胡散臭いと思い始めているみたいで、北朝鮮を独断で訪ねたのもそういう背景があるかもしれない。
 
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 空爆撤回後にこういうことを言っているので、何とか、元のさやに戻ればいいなと思う。

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