隈研吾 くまのもの

 書きそびれていたが、東京ステーションギャラリーで開催されている、隈研吾の展覧会に行ったんだった。
 あの日は、ルドンと鈴木長吉も観たので、こちらは後回しになった。
 「くまのもの」と題された展覧会で、今回は建築素材にテーマを絞っていた。
 なので、あたりまえなんだが、素材の特性から発想して全体を形作っていく建築家であるかのように見えた。
 それは例えば、こんな

高知県にある梼原木橋ミュージアムを見ると、受ける印象が壮麗であるだけに、かえって、素材へのこだわりが感じられる。
 だって、細い短い木を組み合わせてできてるからWOW!ってなるんで、これが分厚いコンクリート製だったら、その辺の高速道路だもん。
 素材へのこだわりは、環境負荷とか地産地消とかも含めて、土地土地の文化に対する敬意とその尊重を感じさせる。
 もう一点は、可塑性というとおかしいかしれないが、かたちの柔軟さ。
 それは、素材の特性を最大限に生かそうとすることともつながっているが、一方では、コンクリートとガラスでできた四角い箱に対する反発でもあると思う。
 その点ではザハ・ハディドと共通していたと思う。
 例えば、アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ・センターが、ザハ・ ハディド自身の意図がどうであろうと、四角い箱に対するアンチテーゼであることは確かである。

 しかし、ザハ・ハディドの建築が数学の美しさを思わせるのに対して、隈研吾の方は土着的に感じられる。それは、木や竹や石といった自然の素材に目を奪われるというだけでなく、日本人としてはめずらしいことでもなく、何もない砂漠に巨大な石の塔を立てるといった崇高性への志向よりもむしろ、周囲の自然に溶け込んでゆく、か、あるいは、周囲の自然から浮かび上がってくるような方向を好むのではないかと思う。
 『負ける建築』、『自然な建築』、『小さな建築』、などいう著書のタイトルだけ見ても、同じように、四角い箱に対立しているとしても、ザハ・ハディドの方向とはまったく違っていると思われる。
 2020年の東京オリンピックの国立競技場の建築家が、ザハ・ハディドから、隈研吾へと変わったわけだけれど、良くも悪くも日本的な志向ではある。
 ザハ・ハディドの設計した最初のキールアーチがあそこに聳える姿を見たかった思いもあるのだが、結果としては、それは実現しなかった。
 大阪万博の時は、丹下健三が設計した大屋根を突き破って、岡本太郎太陽の塔が出現したが、いまの日本人にはそのパワーがなかったって風に見えてしまう。
 もっと言えば、もし環境負荷や自然やを考えるなら、オリンピックを招致しないか、あるいは、招致しても、1964年の施設を再利用すれば、その方がはるかに環境に優しかったはずである。
 今あるものを使えばいいのに、わざわざ新しいのを造って、イメージだけは「環境に配慮」みたいなのには、何かしら居心地の悪いものを感じる。