東京国立博物館で「きもの」

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東京国立博物館「きもの」

 この展覧会もコロナ禍の割り込みで会期が後になった展覧会。もともとインバウンドの客が多いトーハクだし、コロナ禍でなければ、外国語がとびかうにぎわいになっていたことだろう。
 三密を避けるために、チケットは入場時刻指定の完全予約になっている。それはしかたないにしても、金曜日と土曜日の夜間開館もなし、しかも、常設展も一階のみで二階は閉鎖は自粛しすぎじゃないんだろうか。浮世絵と水墨画がみられなくて残念だった。
 おまけに、ユリノキの巨木(小津安二郎の『麦秋』に出てくる)まで枝が刈り込まれているのは、とりあえず予算消化のためにやらなくていいことをやったのではないかと勘ぐってしまう。
 しかし、展覧会そのものは見応えがあった。たぶん1時間半どころでなく2時間くらいいたと思う。
 というのは、特別展の平成館から常設展の本館にいく屋内の通路が(どういう理屈からか)封鎖されていて、本館にいくためいったん外に出たとき無意識に時計を見たら大体2時間近く過ぎていたから。
 ただ、おしむらくは、写真撮影が許可されていなかった。ので、以下は常設展にあったときに写した写真になる。し、ここにあるきものが展示されるかどうかわからない。会期が8つに分かれていて細かく展示替えがある。
 個人的に壮観だなと思ったのはいろんな火消し半纏がずらりと展示されていたこと。

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火消し半纏
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火消半纏

 雷神が描かれているこちら側は裏地。町火消しが火事を消し止める、その頃には、火消し半纏の表側は灰だの火の粉だの泥はねだのを散々浴びてるわけ、だから、その帰りには、火消したちは、それを裏返しにして羽織る。その裏地がこれなわけ。たぶんこのために消火活動をしてると思う。江戸っ子の「粋」と「いなせ」。
 中世の小袖が、江戸時代に、今のきものに変化してきたについては議論の余地がないと思う。その変化のもっとも大きなところは反物の幅だろう。いちばん広い頃は46センチくらいあったものが江戸時代には36センチくらいになっている。この生地の狭小化が身体から運動の自由を奪うのは疑いない。
 問題はこれが、町人の贅沢を禁じようとする幕府の規制によるものなのか、それとも、町人の側からの自然発生的な流行だったのかがよくわからない。
 奢侈禁止令があったにはちがいない。でも、それに関しては庶民は庶民であの手この手で対抗してきた。たとえば、色が規制されれば「四十八茶百鼠」といわれる中間色を発明した。反物の幅が規制されても、それまで通りゆったり着たいのであれば、工夫の仕方はいくらもあった気もする、ことを思えば、規制があったにせよなかったにせよ、庶民の側にも、窮屈に着たい欲求があったのかもしれない。
 近年でいえば、とつぜん、血流がとまりそうなスキニーなパンツが流行ったりもした。
 なので、小袖からきものへの変遷が、規制によるものなのか、流行なのか、あるいはその両方なのかは今のところちょっとわからないのだけれども、いずれにせよ、江戸時代の日本人の身長は、日本人の身長史上いちばん低い。
 身長ときものがどれだけ関係あるか分からないが、ここに奇妙なJapanizeの一例をみてしまう。そもそも意味があるのかどうかわからない奢侈禁止令とそれをかいくぐることにフェティッシュな喜びをみいだしている庶民。真の改革が外からやってくるまで重箱の隅をつつくような自粛を繰り返してきたわけだった。
 総鹿の子、縫い箔、金紗などが規制される前と後では印象はがらりと変わる。
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唐織 濃茶茶浅葱段秋草模様

小袖 紅綸子地竹梅鶯文字模様

 こういう感じのものが、友禅染以降には、いま、わたしたちがふつうに街で見かける着物にかわる。
 テクスチャーの面白さをきもの単体で表現できなくなったので、その後は、レイヤードに工夫するようになったのではないかと思った。帯がどんどん太くなるのも、帯がきもののレイヤードの一部になるからという意味もあったと思う。もちろん、反物の幅が狭くなった分、帯の機能がさらに重要になったこともあるけれども。

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喜多川歌麿

 
 尾形光琳が描いたもので唯一現存するという「冬木小袖」が展示されていた。

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尾形光琳「冬木小袖」

 これは修復が必要だそうでクラウドファンディングでお金を募っている。国の重要文化財なのに?。悲しすぎる。

 掛け袱紗なんて当時の生活を忍ばせるものも展示されていた。

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掛袱紗 紺繻子地貝桶模様

 
 豊臣秀吉の陣羽織とかもあったけれど、沖縄の紅型とか、東北の襤褸とかまで、庶民の衣服にまで広がっていてくれるともっと嬉しかったと思う。

 そのころから上級国民は規制を逃れていたみたいで、あいかわらず豪華なものを着ていたようだが、友禅染以降の展示は、似たり寄ったりな気がして、斜めに見て過ぎたが、近代では大正昭和の銘仙が面白かった。
 銘仙という言葉は知っていたが、もとは「目千」が語源といわれているそうだ。経糸がつんでいて目が細かい。ごく最初はくず糸で作られていたので値段も安かった。昭和モダニズムをおもわせる大胆なデザインが多い。
 めずらしいところでは、YOSHIKIのデザインしたきもの、岡本太郎が描いた着物などもあった。
 絵の方でも、誰が袖屏風とか遊楽図屏風、浮世絵も多数あり、とても紹介しきれない。展示替えも頻繁なのでちゃんと見ようと思うとキリがないくらい。コロナ禍で人が少ないのがさびしい。
 岡田三郎助の

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岡田三郎助《あやめの衣》

この絵に描かれた

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あやめの衣

とも再会した。
 きものって今の私たちはほとんど着ないが、サザエさんの16巻の表紙では、サザエさんもワカメも着物を着ている。
 
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 こういう暮らしを私たちはいつのまにか手放してしまった。
 大げさに言えば、デザインはある生物の生態系を変えるインパクトがあったわけだった。だとしたら、デザインを生態系の一部としてもうすこし一貫した思想で捉えなおしてみる必要があるんじゃないか。というか、生態系全体をデザインの目で見直してみるのは、非現実的な理想とは言えないと思う。



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黒田清輝≪湖畔≫

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映画「幕末太陽傳南田洋子フランキー堺左幸子