黒田清輝

knockeye2016-04-22

 ちょっと書きかけたけど、上野の東京国立博物館で、黒田清輝を観てきた。
 私個人は、生意気盛りに、明治以降の日本の絵なんて、全部ひっくるめてろくでもないと、多寡をくくっていた時期もあった。現にそう思っていた。
 昔は、その頃の日本人の絵を、邯鄲の歩みに憧れた末に、歩き方が分からなくなり、這って故郷に帰った寿陵余子のように思っていた。その感想すら、芥川龍之介のパクリだが、しかし、室町から江戸時代の自由な絵の実物も、明治以降の絵と同列に評価できる今は、特に、明治維新直後の、変にゴツゴツしたり、もやもやしたりしている絵は、西洋の油絵の量感表現や遠近法に対するコンプレックスを感じて、観ていて気恥ずかしく思った。
 ふりかえって、たとえば長谷川等伯の松林図屏風などを観れば、これほどの空間表現をなしえた水墨画の伝統を、なぜ否定する必然性があったのかと歯がゆく思っていた。だけど、今は、その頃の絵が面白くてしようがない。
 結局、ちょっと信じがたいことだけれど、その時代への批判は、自分自身への批判でもあった。あるいは、少なくとも両親や祖父母の時代に対する反発。つまり、それは、この世のどこかに居場所を見つけて割り込まなくてはならない子供たちの自己主張としては、きわめて健全であるものの、一方ではありがちで凡庸なものの見方ではあった。
 反発しながらも、自分自身のものの見方も、その時代の影響を逃れられて独創的かといえば、結局、自分も同時代人として亜流であるにすぎず、その時代を作った人たちのオリジナルな個性を捉えられなかった。

 一方で、1897年に描かれたこの《湖畔》は、全く名画だ。西洋画家の誰も目にしたことがない日本女性の肌、髪、着物、その着こなし、団扇の持ち方、日本の夏の湖水地方の空気感まで、西洋画の技術でよく描き出したというだけではない。このモチーフの選択が、黒田清輝自身の美意識であることは間違いないからである。
 例えば、高橋由一の花魁を思い出してみれば、あのモデルになった小稲は、出来上がった絵を見て、自分はこんな顔ではないと言って泣いた。私はあの絵に感動する。日本人として、初めて手にした油絵の具というテクノロジーに無心で取り組んでいる、画家の高揚感が伝わるからだ。しかし、そこに、歌麿が表現しえたものに代わる美意識があるかといえば、武士という出自もあってか、高橋由一はそのようなことに無頓着であるように見える。ただ、油絵の具で花魁を描いてみたかっただけであろう。有名な鮭の絵も、ただ鮭を「描いてみた」だけ。その美意識のない目の率直さが感動的なので、つまり、美意識はむしろ鑑賞者の側にある。
 《湖畔》のモデルになった照子がこの絵を観ても、これは私ではないと言わないだろうし、もし、言ったとしたら、小稲とは別の意味だろう。ここに描かれているのは、照子自身であるより、このモチーフに黒田清輝が感じた美だからである。
 絵が画家の美意識を表現する、といった、今ではほとんど無意識に受けいれられている常識も、黒田清輝以前には曖昧だったかもしれない。川村清雄には、もっと古典的な美意識があったが、川村は、西洋のアカデミズムを経験しなかった。
 黒田清輝が学んだラファエル・コランは、のちにエコール・デ・ボザールで教えることになる、アカデミズムの画家だが、印象派も否定しない、折衷的な画風で「外光派」と呼ばれていたらしい(「外光派」と「印象派」って、どう違うの?って思ってたけど、これで初めてわかった)。
 《湖畔》は、アカデミックというよりずっと印象派にみえる。たとえば、髪の色。もしガチガチのアカデミズムの絵であるならば、この髪の色は出せなかったはずである。
 黒田清輝がフランスに留学していたのは、1884年から1893年だが、モネが《印象 日の出》を描いたのが1872年。カイユボットが1894年に死んで、所蔵する印象派の絵画をルーブルに寄贈しようとした時、それを受け入れるか、拒否するかで紛糾した。
 ちなみに、1878年から1887年、山本芳翠がエコール・デ・ボザールで学んでいるが、この時の教師、ジャン=レオン・ジェロームこそ、のちにカイユボットの遺産をルーブルに受け入れさせまいと論陣を張ることになる、その人。
 黒田清輝が留学していたパリはそんな時代だった。もとはといえば、黒田子爵家の跡取りとして、法律を学ぶ留学であったらしいが、画家の道に、彼を引き入れたのは山本芳翠だった。
 wikipediaによると、山本芳翠は料理が上手で、パリに留学している日本人の多くが、和食が恋しくなると、山本芳翠を訪ねたそうで、黒田清輝もそうした仲間だった。
 山本芳翠が黒田清輝の才能を高く買っていたのは、異国での同朋への身びいきというのではないのは、黒田より先に帰国していた芳翠が、「今に黒田が帰ってくる。そうしたら日本の洋画も本物になるでだろう。黒田ならきっとうまく画壇を導いて率いていくよ。(略)お天道さまが出たら、行燈は要らなくなるよ。」と語っていたことからもわかる。
 山本芳翠の滞欧時代の作品は、巡洋艦「畝傍」とともに、南シナ海で消失したそうなので、画業の全容を評価することはむずかしいが、黒田清輝の登場が、当時の日本人にもたらした清新な印象は、 同時代の多くの絵画と見比べれば、質的に圧倒的であったと実感できるはずだ。
 山本芳翠の「芳」の字は、おそらく師匠の五姓田芳柳からとっている。そして、五姓田芳柳の「芳」の字は、おそらく、師匠の歌川国芳からとっている。歌川国芳の孫弟子が黒田清輝を画家の道に導いたことになる。
 《湖畔》が展示されているスペースの傍に、黒田清輝のインタビューから抜粋された一節が掲げられていた。憶えておこうと思ったのだが、ディテールは忘れてしまった。でも、大略を書くと、「日本人の頭脳から出る事柄ということについて、油絵もまた同じように、西洋画とはうって変わった、日本風というようなものになることは極まっている。」
 黒田清輝はこれをどういうつもりで言ったのだろうかと思う。《湖畔》は、こちらのサイトにある黒田清輝の照子夫人の証言では、これは芦ノ湖畔での彼女で、この姿を見た黒田清輝は、「よし、明日からそれを勉強するぞ」と取り組んだそうだ。
 1900年のパリ万博に、《智・感・情》という三枚続きの裸婦像とともに出品された。《智・感・情》は、金箔地に描いた無背景の裸婦像で、黒田清輝としても、日本の伝統と西洋的な構想画の融合を指向したのだろうか、意欲的に取り組んだ作品だった。パリ万博では、《智・感・情》というタイトルではなく、《女性習作》と改めて、銀牌を授与されたが、師匠のラファエル・コランは、「黒田は日本に行って腕が落ちた」と、評したそうなのだ。
 だが、写実的に裸婦を描くということ自体が、日本では論争を巻き起こす、そんな時代だった。フランスのサロンに出品され、入選を果たした《朝妝》を日本で展覧会に出品すると、新聞が撤収を求める記事を書くといった状況だったそうで、黒田は、親友の久米桂一郎への手紙に「裸体画を春画とみなす理屈が何処にある」と憤慨している。去年、春画展開催をめぐってもめた日本の状況を思い出すと感慨深い。のちには《裸体婦人像》を展示する際、公序良俗を乱すとして、警察が絵の下半分を布で覆いかくした、いわゆる「腰巻事件」もおきている。
 黒田清輝がいなければ、日本人は、人体を直視する勇気さえ手にしていなかっただろうと思う。
 にもかかわらず、《湖畔》は、名画に違いない。この絵は長く、樺山愛輔が所蔵していた。樺山愛輔の次女である白洲正子は、かつて客間に飾られていたこの絵を「空も山も水も一つの色にとけ合って、そこに団扇を持って涼んでいる女は、湖水から生まれた水の精のように清々しい」と評したそうである。
 私たち日本人は、ここに描かれている日本の夏の、湿り気を含んだ空気がわかる。しかし、それを絵に写しうる可能性については、黒田清輝以前の誰も想像さえしなかったはず。具象画を観たとき、目の前に描かれたモチーフが、「あるかのように」思うという人がいるが、優れた画家以外の人は、目の前にあるものを見ることすらできない。
 黒田清輝が日本にもたらした自由は、そうした自由だった。何を描いてもいいが、何を描くかは自分の目で見つけなければならない。油絵が日本の絵にもたらしたものは、ジャポニズムが西洋の絵にもたらしたものと全く同じく、「自由」だったということに、長い時間をかけて気がつくことになる。
 黒田清輝自身は、その後、日本における官展の創設と、ファミリービジネスである政治に忙殺されることになる。また、代表作のいくつかは、震災と戦火に焼失した。