ミケランジェロ展については、ミケランジェロの展覧会を日本でやるのが無茶だと思った。
今回展示されている《ダヴィデ=アポロ》は、ミケランジェロがフィレンツエを脱出する頃に造っていた未完品で、肩に担いでいるのが矢筒か投石器か分からないのでアポロかダヴィデかすら特定できない。《若き洗礼者ヨハネ》は、前世紀の初めに戦争の最中に粉々に破壊されたのを修復したもの。
逆に言えば、そういうのしか(もちろんそれでもすごい価値なのはわかるが)国境を超えないところにミケランジェロのVIPぶりがわかる。以前、汐留ミュージアムであったミケランジェロ展も来てたのはデッサンくらいだったし、何でも日本で観られるってわけじゃなくていいと思う。
その意味では、東京国立博物館で開催されている、縄文土器の展覧会は圧巻。
特に、火焔型土器は、よく見ると緻密に点対称なんだけれど、ぱっと見は自由奔放にうねっているようにしか見えない。誰かが作ったように見えない。そのような形に土から生え出たようにしか見えない。火焔型はもちろん後年の命名にちがいないが、力強いフォルムが火焔という言葉を何千年も前から今に運んでくる。火焔という言葉そのもののようなのだ。
東京国立博物館と国立西洋美術館は、常設展が撮影可なのが楽しみ。
晩年のルノワールは、すべてを色彩に還元してしまった印象派絵画がどうやったら量感を獲得できるかという格闘だった。
モーリス・ドニは、最近分かるようになった。空気が濃密に感じられるのは、ドニの絵には、余白と言える部分がほとんど全くない。写生に見えて、全部が面の組み合わせなので、余白に馴れている日本人としては、最初は戸惑った。
ラファエル・コランは、黒田清輝の先生だった人。外光派といいアカデミズムの画面に印象派の光線を取り入れた画風だった。印象派が登場する前のアカデミズム絵画は、光源がはっきり限定されているので、なんかスタジオ写真みたいに見える。光の方向を考えて陰影をつけていけば確かに立体的に見えるが、それは、所詮、だまし絵めいた技法にすぎなかった。
モネの色をRX100てどのくらい再現できるかためしてみた。